一介の農民から身を立て、幕末・明治の動乱を泳ぎ切り、日本経済の礎を築いた偉人、渋沢栄一。現在のみずほ銀行に東京電力、JR、帝国ホテルにキリンビールなどなど、ありとあらゆる分野の企業500社以上を立ち上げ、まさに現代の日本経済をグランドデザインした異能の人だ。
しかし、その一方で、倒幕派の攘夷志士のはずが徳川家の家臣に、さらに明治維新後は敵方だったはずの明治新政府の大物官僚にと、次々と「謎の転身」を遂げ、当時から毀誉褒貶(きよほうへん)の激しかった人物でもあった。
今回は全7回のシリーズとして、この偉人にして異能の人・渋沢栄一の謎多き生涯と、知られざる一面に光を当てていく。シリーズ最終回となるこの第7回では、倒幕の志士だった渋沢が徳川慶喜に仕え、さらに維新後も忠誠を捧げ続けた謎について迫る──そこには、中世から幕末にまでつながる「秘められた歴史」があったのだ!
■渋沢が「敗軍の将」慶喜に終生、忠誠を誓った謎
渋沢の人生でもっとも不可解なことの一つが、徳川慶喜が死ぬまで忠誠を捧げたことだ。シリーズ第一回で触れたように、そもそもが倒幕を狙うテロリストだった渋沢。幕府や役人についてもボロッかすにこき下ろしていた。追ってから身を隠すため、たまたま知遇のあった一橋家に仕官したまで。実際、当初はそのまま長州へ逃げようかと、同行していた従兄弟の渋沢喜作に相談していたと自伝に記している。
そんな渋沢が、1913年(大正3)に徳川慶喜が亡くなるまで(なんと、慶喜の葬儀委員長まで務めている)、なぜ尽くし続けたのか? しかも、1893年(明治26)から約四半世紀もかけて、
「慶喜公は幕府を滅ぼした愚か者ではない!」
「慶喜公の真意や見識の高さを知ってくれ!!」
と、慶喜の汚名返上のため私財を投げうち『徳川慶喜公伝』という大部の伝記を編纂しているのだ。すでに謹慎は解かれていたとはいえ、いわば「敗軍の将」の慶喜。言ってしまえば大坂夏の陣のあとで、「豊臣秀吉サイコー!」とべた褒めする伝記を発表するようなもの。
編纂を企画した当時、渋沢は53歳。政府と密接な関係を保ちつつ実業界をけん引していた頃だ。なぜ、こんなリスクを冒す必要があったのか不思議なところ。だが、渋沢家の歴史を遡っていくと、それだけの忠誠を捧げるのも納得の「ある因縁」が浮かび上がってくるのだ──。