●渋沢栄一が目論んだ「新田氏再興計画」があった!?

渋沢の養子で、妻・千代の弟でもある平九郎。徳川への忠誠に身を捧げ、24歳の若さで戦死。

 ただ少なくとも、渋沢家では代々、自分たちは新田(あるいは足利)ゆかりの一族という意識があったのは確か。それゆえ渋沢が、同じ新田の血脈に繋がる徳川家にシンパシーを抱いていたとしてもおかしくはない。

 また、新田の血脈にこだわっていたのは渋沢一族だけではない。第一回で触れた「第二テロ計画」の盟主になるはずだった人物も、実は新田宗家の流れを汲む岩松俊純だった。つまり、新田氏が興った鎌倉時代初期から600年を経た幕末においても、この地域で「新田の血脈」は崇めるべき存在だったといえる。

 ここまで見てくると、あれだけ徳川”幕府”はこき下ろしていたのに、徳川”宗家”を継いだ慶喜に終生、忠誠を捧げた理由の一つが「新田の血脈」へのこだわりにあったのではと考えたくなる。渋沢栄一だけではない。従兄弟の喜作は彰義隊から函館まで戊辰戦争を戦い抜いて牢に繋がれ、養子だった平九郎は飯能戦争で討ち死にと、渋沢一族が文字通り命がけで徳川家に忠誠を尽くした謎もこの辺にあるのではないだろうか?

◆利根川を挟んだ「新田の故地」へ遷都を狙った渋沢?

 維新後、なし崩し的に都が京から江戸(東京)へと移ったのだが、当時は「京都へ戻ろう」「いや大阪で」など遷都論議がたびたび浮かび上がった。その中で、渋沢が関わったとみられる遷都案が二つある。まず一つは1978年(明治11)に、佐野常民(日本赤十字社の創始者)が建議した「本庄遷都案」。渋沢の故郷血洗島の西方、現在の埼玉県本庄市へ首都を移すというものだ。研究者によれば、建議作成に対して渋沢からの助言があったとされている。

 もう一つはその8年後、1986年(明治19)に渋沢の盟友、井上馨と三島通庸の連名で建議された「上州遷都案」だ。こちらは「群馬県赤城山麓新田・佐位(さい)・那波(なわ)および埼玉の幡羅(はたら)・榛沢(はんざわ)・児玉」と、現在の群馬県伊勢崎市・太田市・埼玉県深谷市を覆う広大なエリア。この上州案に至っては、あからさまに「新田の故地」へと都を移そうという強い意志が感じられる。

 ちなみに、建議した井上の妻も実は新田氏の流れを汲む、というか前出の岩松(新田)俊純の娘だ。ここまでくると、第三回から第五回で紹介したフリーメイソンではないが、渋沢は「新田の血脈」に操られて動いていたのでは? と勘繰りたくなる。あるいは新田氏を盟主とする「謎の秘密結社」があり、そのメンバーが渋沢栄一であり徳川慶喜だった……と妄想は止まらない。まさに歴史の裏に隠された都市伝説と言えるかもしれない。

 

参考資料
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』(渋沢栄一記念財団)
『渋沢栄一自伝 雨夜譚・青淵回顧録(抄)』(渋沢栄一/角川ソフィア文庫)
『深谷市史・追補篇』(深谷市史編纂会/深谷市)
『幕末武州の青年群像』(岩上進/さきたま出版会)
『徳川慶喜最後の寵臣 渋沢栄一』(渋沢華子/国書刊行会)