源頼朝(演・大泉洋)も「おいおいおい義時くぅん、聞いてないぞぉ」と叫びかねない鎌倉の由来に関するヤバイお話

 大河、観てますか? 『新選組!』に『真田丸』と三谷幸喜脚本の大河に外れナシで、今年の『鎌倉殿の13人』も魅力的なキャラクターやエピソード続々で面白いですよね。ただ、上総広常(演・佐藤浩市)に木曽義高(演・市川染五郎)と悲惨な最期を迎える登場人物が続出で、一部では「鬱展開」などと言われています。

 ただ、この鬱展開は史実どおりで、むしろ、ここから先も「あ、あの人も!?」と悲惨な死が次から次へと描かれることになるのは決定的。では、そもそもなぜ約14平方キロメートル(注1)の狭いエリアで殺し合いが繰り広げられたのか? その原因として、鎌倉という街にまつわる呪い、いや都市伝説が存在するのだ──。

注1:現在の鎌倉市で旧鎌倉または鎌倉地域と呼ばれるエリア。おおよそ鎌倉七口の内側で、当時の「鎌倉」はこれにあたるとされる。大きさで言うとほぼ現在の目黒区と同じくらい。

 

 

■そもそも「かまくら」は「屍蔵」で死者の街だった!?

月岡芳年「大日本史略図絵」第一代神武天皇

一発で1万人以上の犠牲者が出る「毒矢」って……古代核戦争説じゃないんだから

 ここに「鎌倉(かまくら)」という地名にまつわるひとつの伝説がある。曰く、

「神武天皇の東征の際、この地で抵抗する人々に天皇が毒矢を放つと1万以上の人々が死に、死体が山のように積み重なった。屍(しかばね)が蔵(に満ちるよう)になったので、「屍蔵(かばねくら)」と呼ばれた」

 というもの。こうして後々「かばねくら」が訛って「かまくら」となったのだそうだ。つまり、そもそも鎌倉の始まりは死体の山、いわば、死者の街だったのだ! これでは街全体が事故物件みたいなもの。鎌倉時代を通じて血みどろの殺し合いが続くのも致し方ないところか……。 

鎌倉の大仏様も死者の怨霊を鎮めるため、頼朝が切に建立を願ったとの説が有力(残念ながら完成前に頼朝は不審な最期を遂げることに……)。

 いやいや何を縁起でもない、しかも出来の悪い作り話をしているんだとお思いの読者の皆さま。これ本当にあった伝説で、なんなら鎌倉市役のホームページにも掲載されている「公式見解」なのです。

  とはいえ、この伝説自体が江戸時代後期の天保12年(1841)に刊行された地誌『新編相模風土記』(注2)が初出とされていて、意外と新しいものの可能性もある。『相模風土記』自体は鎌倉はじめ相模国で古くから伝わる伝承などをまとめたものなので、もしかするとさらに遡る可能性もあるが、江戸時代に新たに生まれた「都市伝説」と考えたほうがよさそうだ。

注2:風土記とは地方ごとにその土地にまつわる歴史や文化、風土や伝承・伝説などをまとめたもので、同書は現在の横浜・川崎を除いた神奈川県全域と一部、静岡県を含む相模国のことをまとめたもの。

 

■なぜこんな「トンデモ伝説」が誕生したのか?

 

 そもそも、伝説にしても神武天皇が関東まで遠征したとか1万人が死んだとか、盛り盛りすぎてツッコミどころが満載。さらに「鎌倉」という名称自体が『古事記』や奈良時代のものとされる木簡に使われているのに対し、「屍蔵」なる地名が鎌倉より先んじていることを裏付ける資料は今のところないのだ。

鎌倉のあちこちで見られるこの遺跡。これが「鎌倉=屍蔵」伝説誕生の理由だった!?

 ではなぜ「鎌倉の語源は死体の山」なんていうトンデモない伝説が生まれたのか? そこには、鎌倉特有のある風習(?)や信仰があったのだ。 

 ヒントはこの写真をご覧いただこう。鎌倉やその歴史に詳しい方や、何度も観光に訪れている方ならピンとくるかもしれない。詳細は長くなるので次回に譲るが、「鎌倉は死者の街だった」という仮説は、必ずしもトンデモとは言い切れない背景もあったのだ──(後編は5月22日公開)。

 

 

「鎌倉=屍蔵(かばねくら)」伝承の謎を解く後編はこちら