■「願うは日本壊滅!」本物の大天狗は後白河法皇の「実の兄」だった!?
その人物とは、後白河法皇の8つ上の兄で第75代天皇の崇徳(すとく)天皇(上皇)。後々まで「日本史上最大の怨霊・崇徳院」として日本中を震え上がらせた存在だ。
そもそもなぜ、崇徳上皇が日本最恐の怨霊となったのか、そして、後白河法皇がどれだけ恐れたのかについて気になるところ。
調べてみると「そりゃ怨霊にもなるわぁ……」と絶句するほど崇徳上皇は悲惨な人生を送っていた。ひと言でいうなら、西田敏行が怪演した映画『アウトレイジ』も真っ青の「全員悪人」に囲まれた裏切り続きの人生。お恐れながら同情を禁じ得ない。
簡単にまとめると、まず実の父である鳥羽天皇に「俺の子じゃないんじゃ……」と疑われ、天皇即位後も実権は与えられず、さらに22歳で譲位をさせられる。後継は20歳下の弟・近衛天皇で、なんとこの時たった3歳!(注4)
注4/崇徳上皇自身も満3歳7カ月で即位なので特に異例というわけではないが、政治の中心から意図的に遠ざけられたのは確か。
近衛天皇が病に倒れ「次こそ私の子が即位して、院政敷しいて今度こそ実権を……」と期待したら、今度は弟が“ワンポイントリリーフ”として即位し後白河天皇に(注5)。これで崇徳上皇は自分の系統が天皇の座に返り咲く目が完全に潰された形になった。しかもこの謀略の中心人物が、当時の関白で義父の藤原忠通だというからたまったもんではない。
注5/後白河の第一皇子・孫王/守仁親王が即位するまでの中継ぎとして擁立。
さらに「上皇いじめ」は続き、父帝・鳥羽上皇の臨終どころか葬式にも出席させない。さらにさらに、後白河側のしつこい挑発から保元の乱に突入するも、頼みの綱の平清盛一門が裏切られあっさり敗北。頭を丸めて投降するも、とりなしを頼んだ弟・覚性法親王(かくしょうほうしんのう)にも門前払いを食らい、結局、讃岐国(現在の香川県)に配流されることに(注6)。
注6/ちなみに、天皇(上皇)が流刑にされるのは400年ぶり。いかに厳しい扱いだったのかがわかる。
もう往年の大映ドラマも真っ青のいじめっぷり。この時点で生きたまま怨霊になってもおかしくないところだが、さらに後白河天皇以下、権力サイドの非情な扱いは続く──(ひどすぎて全然簡単にまとまらない)。
■血文字で書いた経典で天皇と朝廷と日本を呪う!
『保元物語』などによれば、讃岐に流された崇徳上皇は、(ほとんど自分のせいじゃないのに)保元の乱の反省の意味や都に帰りたいという希望を込め、3年の歳月をかけて「五部大乗経」を写経し、都の近くでこの経典を収めて欲しいと後白河上皇に申し出たという。ちなみにこの五部大乗経、巻数だけで200巻、一番長い「大品般若経」は約480万字あるというから、とんでもない労力と思いの籠ったもの。
しかし、朝廷側は「重いわぁ……恨み籠ってそうだし、受け取れないわ」とにべもなく拒否。ここに至り、遂に崇徳上皇も激昂。一説には突っ返された五部大乗経に舌を噛み切った血文字で
「日本国の大魔縁となり、皇を民となし民を皇となさん」
「天下を乱り国家を悩まさん」
「この経典を地獄・餓鬼・畜生の三悪道に擲(なげう)って大魔縁とならん!」
などなどの呪詛をしたため、その後は髪も髭も爪も切らず、生きたまま天狗のような姿となって後白河上皇をはじめ裏切った者たちを呪い続けて46歳の若さで崩御したという(注7)。
注7/……ただし、『崇徳院怨霊の研究』(思文閣出版)や『怨霊とは何か』(中公新書)などで知られる中世信仰史の専門家、山田雄司・三重大学教授によれば、実像としては恨みや怨霊とはほど遠い寂しいながらも穏やかな晩年だったとのこと。
■そして、遂に後白河上皇を都を日本を襲う怨霊の祟り!!
崇徳上皇崩御の翌年には二条天皇が23歳で、2年後には真っ先に裏切った上皇の義父・藤原忠通を継いだ関白・近衛基実が24歳の若さで急死したのをはじめ、後白河法皇、藤原忠通などの関係者が続々と急死。
さらに、没後10年経った頃には京の都は相次ぐ大火で焼失。鹿ケ谷の陰謀(ここにも崇徳上皇を裏切った信西の息子が関与)など大乱が相次ぐことに。
ここに至って公家の間でも「これ……崇徳上皇の祟りでは?」と噂が蔓延。しかし、それでも後白河上皇はグダグダして結局、寿永3年(1184)になってやっと「崇徳院」の院号を与え、京の外れ粟田口に「崇徳院廟」を設けて遅まきながら慰霊することになった。
ただこれは遅きに失したようで、前出の慈円が後に『愚管抄』の中で、
「藤原忠通一家の相次ぐ不幸も、後白河上皇が朝な夕なに不運な目に遭われるのも、崇徳上皇が亡くなられた後、ずっと何もしなかったから。(崇徳上皇の霊を)讃岐から京に呼び戻し申し上げて、お慰めしておけば、こんなハメにならなかったのに……」(かなり意訳)
とボヤいているように、その後の後白河上皇は幽閉、平家一門は滅亡、代わりに台頭した源頼朝に権力を握られると、朝廷の権威は地に堕ちることになる。まさに「大魔縁(=天狗、天魔)」となった崇徳上皇の怨念が形になったといえる。
一見、トリックスターや策謀家と思われる後白河上皇だが、それもこれも不遇の死に追いやった実の兄、崇徳上皇への罪悪感や、怨霊となった崇徳上皇への恐怖があったのかもしれない。
『現代語訳吾妻鏡(3)幕府と朝廷』五味文彦・本郷和人[編]/吉川弘文館
『怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院』山田雄司/中公新書
『愚管抄 全現代語訳』慈円・大隅和雄[訳]/講談社学術文庫
『鎌倉武家事典』出雲隆/青蛙房
『鎌倉殿と呪術 怨霊と怪異の幕府成立史』島崎晋[著]/ワニブックス