■聖徳太子も実は怨霊として鎮められていた?

最強の怨霊にして江戸の守護神と崇められた平将門/豊原国周作

 さらに、京都御所の真北に鎮座するその名もずばり御霊神社(上御霊神社)に祀られているのは、桓武天皇の弟で暗殺事件に関わったとして罪を着せられ憤死した早良(さわら)親王だ。

 怨霊と恐れられる経緯は菅原道真と同じ。親王の無残な最期(抗議のため食を断ったとも、餓死させられたとも)の後、桓武天皇の周辺で怪死が相次ぎ、市中でも疫病が猛威を振るった。そこで慌てた桓武天皇は各地に御霊神社を建て、国を挙げて慰霊(と贖罪)を祈ったという。

 そして、桓武天皇は平安京に遷都した際、都の守り神としてこの早良親王を祀り御霊神社を創建したというのだ。「自分が死に追い込んでおいて守り神って調子よくない?」と思うだろうが、ここが御霊信仰の特徴の一つ。要は「仇を呪い殺したり天変地異を起こすようなパワーを味方につけたら……素敵やんw」という、調子いいと言うか、いけずうずうしい発想なのだ(静かに眠らせてやれよ……)。

お札の肖像画にもなったあの偉人も……

 先に挙げた平将門も、御霊(怨霊)として恐れられる一方、江戸の守り神として神田明神に祀られているのは有名な話。さらに、哲学者で数々の歴史評論も遺した梅原猛は「法隆寺は聖徳太子一族の怨霊を鎮めるため建立された」という説を唱えていた(後に史学界から猛烈な批判も受けたのだが……)。

 なお、法隆寺が再建されたとされる7世紀後半は疫病の流行や東北や九州での反乱、さらに「白村江(はくすきのえ)の戦い」の敗戦と、その報復で新羅(しらぎ)と唐の連合軍が攻めてくるのでは? という不安が高まっていた頃。聖徳太子という名が広まっていったのも同じ時期だとされる。

 いずれにしても、①非業の死を遂げる→②怨霊として猛威を振るう→③国を挙げての鎮魂+神社の創建→④怨霊から御霊へ転換→⑤ついには守り神へ、という‟御霊信仰コンボ”で、日本各地に御霊神社が創建されることになったわけだ。

■御霊信仰で何を守ろうとしているのか?

 かくして、御霊信仰という面からみれば、岸田政権が国を挙げて亡き元首相を祀り上げようと、国葬にこだわるのも無理はない。また銃撃事件の山上容疑者の供述にもあるように、本来の暗殺ターゲットだった旧・統一教会教祖や幹部の、いわば「手の届くとこにいた身代わり」として暗殺された元首相は、非業の最期と言う以外ないところだ。

 し・か・し、だ。そもそも、安倍元首相の死後、台風による被害はあったものの激甚災害に当たるような天変地異は起こっておらず、関係者の怪死なども幸いなことに耳にしていない。

 上の”御霊信仰コンボ”でいえば、②をすっ飛ばして③~⑤へ向かおうとしているようだが、現実には、岸田政権の支持率は急落し、自民党議員と旧・統一教会との関係が次々と白日の下に、さらに五輪汚職スキャンダルで自民党のドンにまで司直の手が伸びかねない状況。つまり、むしろ祟りが起こっているとすれば、ピンポイントで永田町一丁目あたりということになる。

 ということは、仮に御霊信仰の下に国葬を進めているとすれば、日本国や東京ですらなく、ごくごく狭い永田町某所の守り神に仕立て上げようとしているのでは? とゲスの勘繰りをしてしまうところだ。

 どうか国葬という形にこだわらず、ただ無念の死を遂げた元首相の冥福とご遺族の心安らかなることを祈るだけにできないもんでしょうかね。