■実話怪談と小説の違いとは?

「起こったことを起こったままには書けないのが実話怪談」と語る吉田悠軌氏。

──第2回の最後に「怪談とミステリは同じコインの裏表」というお話が出ましたが、少し角度を変え「実話怪談と小説」とではどんな違いがあるのでしょうか? また、お二人は執筆の際にその違いを意識されていますか?

 

吉田悠軌(以下、吉田):あくまで私の場合はですが、そこは明確に小説っぽくならないようにしてますね。実話怪談というのは、あくまで「体験者の体験談」であって、もちろん体験者の人となりが関わることもあるけど、小説のように体験者の内面を掘り下げるのは目的ではないと思うんです。だから、実話怪談と小説とでは拠って立つものも目指すところも違うと。

 

──『新耳袋』(注1)のように「あったるものを、あったるままに記す」というスタンスということですか?

 

吉田:いや、そこも違って。むしろ「起こったことを起こったままには書けない」というのが実話怪談のスタート地点で。われわれ取材者に語るときにはすでに体験者の解釈も入ってますから「体験自体」とか「客観的事実」を取り出すことはできない。ただ、どういう風に話をもっていくかとか私の解釈、演出は入ってくるものの、そこに嘘や創作は入ってこない。それに、私はあくまで取材者で、ゼロから物語を作っていくということにはあまり興味を感じないんですよね。

 

■アタマで考えて思いつくものじゃないのが実話怪談

怪談でも「話の展開」に興味が向くと語る青柳氏。

青柳碧人(以下、青柳):そこが吉田さんと僕の違うところなんだろうなって思うんですけど、僕はやっぱり想像力を仕事にしている者だから、「お話を作る」ということや話の展開っていうものに興味が行くんです。今回『怪談青柳屋敷』を書いていても、どういう登場人物がいて、その人がどういう状況で、どういうことが起こって不思議でしたっていうお話の展開を中心に物語を捉えるのに興味があるんだろうなって、自分でも思いましたね。

 

吉田:だからこそ、昔話を材にとった本格ミステリ(注2)を書かれているわけですよね。物語そのもの、「物語の核」みたいなものに興味を惹かれれば、やっぱりそれは昔話とか神話とか、実体験談とは真逆にあるようなものに至りますから。

 

青柳:そうですね。昔話と実話怪談だと、「物語る」という大枠では同じだけど、いちばん遠い位置にありますよね。ただ、頭で考えて思いつかない話じゃないですか、実話怪談って。やっぱりそこが僕は好きなんだろうなって思います。

 

注1/木原浩勝・中山市朗よる実話怪談の傑作シリーズ『新耳袋 現代百物語』(メディアファクトリー/文庫版はKADOKAWA)。90年代後半から2000年代にかけての怪談ブームの火付け役となった。

注2/『むかしむかしあるところに、死体がありました。』「浦島太郎」「鶴の恩返し」など《日本昔ばなし》を密室、倒叙、ダイイングメッセージといったミステリのテーマで読み解く斬新なミステリ短編集。

■吉田さんの怪談の原点はドキュメンタリー映画?

話はさらにお互いの怪談に向き合うスタンスの原点へと──

──あくまで「体験者による体験談」だけど、起こった現象そのものや体験自体を書くことはできないという、実話怪談の立ち位置や構造の話まで伺えてとても興味深かったですが、青柳さんはどう受け取られました?

 

青柳:いま吉田さんの話を聞いて思ったのは、さっき伺ったように(第1回参照)、ドキュメンタリー映画を学んだ方の考え方なんだろうなと。ドキュメンタリーと怪談とは、そこに映像があるかないかという大きな違いはあるんだけど、「体験者の映像」がないからこそ、それをどういう風に伝えていくかということを突き詰めたうえでの今の吉田さんの考え方なんじゃないかと。

 

吉田:そうですね。「体験者さんの体験」はそれが不思議体験である場合、ドキュメンタリー映画のように映像としては絶対に残らない。その点では大きく異なりますけど、コミュニケーションの重要性という意味では重なりますね。ドキュメンタリーでは作り手側と撮られる側のコミュニケーションがかなり重要な要素。対して、怪談も体験者の体験談を取材者の私が聞いて怪談として語ったり、文章化したりする。それをまた聞き手(聴衆や読者)が個人的に誰かに話す──という一連のコミュニケーションそのものが怪談なので。

 

青柳:「伝える」という行為自体が怪談と。

 

吉田:そうそう。そうやって伝えてコミュニケーションしていく、この運動の場あるいは運動体を怪談と呼ぶ。そういう意味ではドキュメンタリー映画の要素も大きく重なっていますね。