■もはや災害並みの凶獣を狩った伝説のハンターとは?
ネパール王国は軍隊まで繰り出したものの、その追跡をあざ笑うかのように各地で人を喰らい、ついに国境を越えた魔獣(人喰い虎にそんな意識はないだろうが……)。「ネパールから人喰い虎がやってきて被害が続出しているらしい」との噂を、1903年、一人の男が耳にした。
その男こそ、後に伝説のハンターと謳われたエドワード・ジェイムズ(ジム)・コーベット。アイルランド系の植民者の息子としてクマ―ウーン地方に生まれ、地元の鉄道会社に勤める一方、凄腕のハンターとして知られていた。一説には、幼い頃から地元の森や原野を駆け巡り、現地人の猟師たちから、野生動物の追跡の仕方や狩りのイロハを学んだのだという。
そして、1907年4月下旬、ついにコーベットのもとへ人喰い虎狩りの依頼がもたらせれた。それ以前には英軍士官やコーベットの義兄らが”人喰い討伐”に失敗。最後の頼みの綱とされたのがコーベットだった。さっそく彼は地元民の協力者を連れ、人喰い虎出没の報告があった山村、パーリ村、さらには、後に人喰い虎の異名にもなったチャンパーワット村へと向かう。
5月9日に村に到着したコーベットたちが捜索を続けるさなか、11日には最後の犠牲者となった14歳(16~17歳とも)の少女の悲報がもたらされた。この日、4時間にわたる追跡の末、少女の遺体を喰らう虎と遭遇するものの取り逃がし、翌12日、ついに魔獣との最終決戦の日を迎える──。
■人喰い虎の最期と”魔獣狩り”コーベットの後半生
5月12日朝、家族や仲間を喰い殺された恨みに燃える300人の地元民を勢子として、コーベットは人喰い虎が潜む谷間へと向かった。その手にはゾウ撃ちに使う「.500口径」の超強力なライフル弾。勢子に追い立てられた魔獣に向け3発を放ち胸と肩に重傷を負わせるものの、頼みのライフル弾は撃ち尽くす。しかも、30メートル弱の距離で、最後の反撃を加えようと人喰い虎は牙を剥いている。
最後は、地元民の使う骨董品並みのショットガンを受け取ったコーベットが、6メートルほどまで近づいてとどめの一弾を放ち、500人近くの犠牲者を出した人喰い虎はようやく退治された。かくして「最悪の人喰い虎ついに射殺される」との報は、インド、ネパール全域に広まり、コーベットの名も伝説のハンターとして知れ渡ることになった。
その後もコーベットは、1910年に400人以上を喰い殺した「パナールの豹」を、1926年には8年に渡り125人を殺害した「ルドラプラヤグの豹」を撃ち殺すなど、インド各地で次々と「人喰い」を退治。1930年には体長3.2メートルを超す巨大なベンガルトラも仕留めるなど「魔獣ハンター」の名を知らしめた。
しかし、その一方で無闇にベンガルトラや豹などを狩ることに異議を唱えていたコーベットは、インドにおける自然保護活動に先鞭をつけた。1936年、人喰い虎を追ったクマ―ウーン地区にインド初の国立自然公園の設立する際にも彼は率先して協力。現在、この国立公園は彼の名を冠してジム・コーベット国立公園とされ、ベンガルトラ保護活動の拠点となっている。
■「人喰い虎」を生み出したのは環境破壊だった?
なぜ20世紀初頭に、インド・ネパールでこれほど「人喰い獣」が続出したのか? チャンパーワットの人喰い虎と伝説のハンターの戦いを追った傑作ルポ『史上最強の人喰い虎』のなかで、著者のハッケルブリッジはその理由を挙げている。
一つは急速な植民地化による森林の破壊。これにより大型肉食獣の餌となる動物も減少し、より手軽な獲物として人間が狙われたのだという。さらには、植民地政府が推奨した虎狩りのせいで、下手なハンターにより手負いとなった虎や豹が逆に人間を襲うようになったこと(チャンパーワットの人喰い虎もその一例と推測されている)。
そしてもう一つは、相次ぐ叛乱や暴動を封じ込めるため現地民から武器を取り上げたことで、いざ人喰い獣が出現した時に対抗する手段が限られてしまったことも大きいという。いわば、人喰い虎や豹が続出したのは「人災」という面が否めないという。そう考えると、冒頭で紹介したチャンパーワットの人喰い虎の首も、獰猛というより、追い詰められ悲鳴を上げる表情にも見えてこないだろうか。
『史上最恐の人喰い虎 436人を殺害したベンガルトラと伝説のハンター』デイン・ハッケルブリッジ著・松岡和也訳/青土社