「日本三大熊害事件」のひとつに数えられる、1970年に起こった「福岡大ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件」では、北海道の日高山脈を縦走中(注1)の5人の大学生のうち3人がヒグマに襲われ命を落とした。
注1:縦走とは、登山で尾根伝いにいくつかの山頂を通って歩くこと。(デジタル大辞泉より)
事件発生の数日後、捜索隊により3人の無残な遺体が発見されたのだが、犠牲者のひとりは仲間とはぐれたあと、テントでヒグマの恐怖と戦いながらメモをとっていた。メモには判読できない箇所があるのだが、いったい彼は何を伝えたかったのだろうか──。
■綿密な準備を重ねた彼らが遭遇した悲劇
「福岡大ワンゲル部ヒグマ襲撃事件報告書」(注2)によると、この日、日高山脈の山に入山していたパーティーは約三十あった。報告書にはこうつづられている。
注2/報告書の正式名称は「「北海道日高山脈夏季合宿遭難報告書」。事件直後にまとめられ、50年越しに遺族や部員の許可を得てYAMA HACKに掲載された。
熊の件を除けば、今回の日高縦走の計画や装備・食料・治療・気象その他の準備については、専門家の判断でも特に問題はなかった。
また、登山でどうするか決めるのは、パーティー(共に山登りをするグループ)のリーダーが決める。この日こそ、全員で山を下りる最後のチャンスだったのだが、Aの山頂に辿り着きたい思いは強く、ほかのメンバーも同様だった。
特にこの山に憧れていたリーダーのA(20)にとって、もはや夢は目前に迫っていただろう。だが、この数時間後にAは、生き延びた佐藤と高橋(ともに仮名)の目の前でヒグマに追われ、常識はずれの凶暴さに駆られた獣の餌食(えじき)となってしまう──。
■7月26日、遂に最初の犠牲者が
惨劇の起こった運命の日、1970年7月26日夕刻、最初の犠牲者は最年少で18歳のCだったのは間違いない。彼は最初に襲われ、悲鳴をあげながらヒグマに追われ八ノ沢カールへと駆け下っていくのを最後に姿が消えた。そして、混乱の中パーティーとはぐれたBも、安否がわからないまま行方不明になった。
ここで残ったA、佐藤、高橋の3人は逃げるべきだったのかもしれないが、ヒグマに追われ安否不明のBとCを捜索するため、翌朝、彼らは動き出す。これは私の憶測にすぎないが、Aはリーダーとしての責任を感じていたのかもしれない。
しかし、Aを責められる人などいるだろうか。計画も準備も、事前にしっかりとしていたのだ。「福岡大ワンゲル部ヒグマ襲撃事件報告書」にも、今回のヒグマによる遭難は「不可抗力であった」とはっきりと記されている。
リーダーのAや佐藤、高橋の3人が八ノ沢カール上方の岩場でヒグマに襲撃を受けた7月27日早朝、彼らの知らないところでBは生きていた。そして、後にBの遺体近くで発見されたメモから、襲撃以後のBが置かれた状況や心情が判明した──。
26日夜、Cが襲われたことを確信しながら、仲間とはぐれてひとりぼっちになったBが、Aが何かを言っているのは聞き取れたが「全員集合」という言葉まではわからなかった。彼はヒグマに追われながらも必死に逃げ、助けを求め鳥取大学のテントに入った。だが、彼の眼の前には愕然とする光景が……。そこにはもう、誰もいなかったのだ。
第一回の記事で触れたように、鳥取大のパーティーは福岡大のメンバーのSOSに応え、火や笛でヒグマを追い払おうとしたものの、自分たちにも危険が迫っているため、ひと足先に撤退していたのだ。Bは無人のテントに入り、鳥取大のメンバーが残していったシュラフに潜り込み、孤独とヒグマへの恐怖に身を震わせながら夜を明かすことになる。
■ひとりはぐれたBのメモにあったものは
翌27日。朝からA、佐藤、高橋が自分を探していたことを知らず、彼はヒグマの襲撃に怯えて午前8時ごろまではテントにいたようだ。以下、前出の報告書から彼のメモの一部を抜粋したい。
ああ、博多に帰りたい。
沢を下ることにする。にぎりめしをつくって、テントの中にあった、シャツやクツ下をかりる。テントを出て見ると、5m上に、やはりクマがいた。とても出られないので、このままテントの中にいる。
3:00 頃まで─────────── (判読できず)
しかし、────────────────────── (判読できず)を、通らない。他のメンバーは、もう下山したのか。鳥取大WVは連絡してくれたのか。いつ助けに来るのか。すべて、不安で恐ろしい。
またガスが濃くなって────────────── (判読できず)
「福岡大ワンゲル部ヒグマ襲撃事件報告書」より(YAMA HACK掲載)
ガスとは濃い霧のことだ。事件当時、八ノ沢カールは4~5メートル先も見えない濃い霧(ガス)に巻かれていたと報告書にある。
どうして前半まで冷静に記されていたBの文章が急に乱れ始め、読み取れなくなったのだろうか?
報告書によれば、Bがこのメモを記したのはおそらく27日の早朝。まさに、A、佐藤、高橋は岩場に隠れている時間帯だ。前夜は3時ごろまで寝付けなかったようだが、その時、Bは何をしていたのか? そして、何が「通らない」と彼は伝えたかったのか? 「ガスが濃くなって」と書いたあと、いったい、彼の身に何が起こったのだろうか……?
なお、Bのメモによれば、メモを書いていた直後、27日の朝8時ぐらいにはテントを脱出しようとしていたようだが、前夜のCに続いてリーダーのAがヒグマに襲われたのは、まさに同じ午前8時ごろだ。
Bの判別できない文字は、何かを伝えようとしている。しかし、しっかりと書けない事態に見舞われていた。ヒグマが来たならメモを置いて逃げただろうが、捜索隊がBの遺体を発見した時、そのメモは遺体の近くで見つかっている。
5メートル先ですら見えないような濃い霧、聞こえてくるヒグマの荒い息遣い。テントから一歩でも外に出れば、間違いなく狂暴な猛獣の餌食になる。救助隊を待ち続ける時間は、通常より長く感じていたはずだ。極限まで達した恐怖は想像を絶する──。