■島の日本軍守備隊が壊滅したのは事実

圧倒的な物量で迫る英軍に孤立した「ラムレー島守備隊」

画像:Public Domain via WikimediaCommons

 さて、ここからは当時の記録を元に、”事件”に至る経緯を簡単に振り返ろう。

  

 1944年当時、ラムリー島を占拠していた日本軍だったが、インパール作戦の失敗で方針を変更。隣接するチェドバ島と合わせ、約1200名の歩兵1個大隊を「ラムレー島守備隊」として残すのみとなった。その任務にあたったのが歩兵第百二十一連隊第二大隊(隊長・猪俣力少佐)だ。

 

 一方、インパールで日本軍を打ち破り勢いに乗った英軍(英印軍含む)は、島の奪取を狙い1945年1月21日早朝、戦艦、砲艦、駆逐艦など17隻に戦闘機、爆撃機の編隊、兵員や武器、戦車を積んだ輸送船16隻を連ねた圧倒的な大部隊で島北端に強行上陸。

ラムリー島に強行上陸する英印軍

画像:Trusler, C (Lt), Royal Navy official photographer, Public domain, via Wikimedia Commons

 当時の状況を克明に記した『渦まくシッタン 鳥取歩兵第121連隊史』(日本海新聞社刊)には、「艦砲射撃と大量の爆弾投下は島を潰さんばかりの激しさ」と書かれている。その後、島内で約1カ月にわたり激戦が繰り広げられたが、1月末には島の南端からも英軍が上陸し、2月上旬には島を囲む洋上や狭い水路まで、英軍艦で埋め尽くされていた。

 

島を囲む海も水路も英軍に埋め尽くされていた

画像:No 9 Army Film & Photographic Unit, Public domain, via Wikimedia Commons

 島の東端に追い込まれた日本軍だが、ビルマ本土側から送った救助船部隊もすべて撃沈され全滅は必至。しかし上層部からは、「玉砕はならぬ、裸一貫で本土に帰還せよ」と命令が下る。島に残ってゲリラ戦の展開を主張する士官もいたが、結局、島東側の「ミンガン・クリーク」(注4)を泳いで渡り、ビルマ本土側のマングローブが密生した湿地帯に紛れ、撤退することになった。

注4/前掲の『渦まくシッタン』では「レーガン水路」とも呼ばれている。

 

 そして、2月19日深夜0時、絶望的な撤退作戦が決行された──。

 

■「ワニで日本軍全滅」都市伝説のネタ元は?

イリエワニによる惨劇は本当にあったのか?(写真はイメージ)

画像:Gregg Yan, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

「日本兵1000名がイリエワニに襲われ全滅した」と言われるのはこの時のこと。ミンガン・クリークは幅約300メートルほど。干潮時はかろうじて足が立つほどの水深になるが、生憎、この時は潮が満ち、背丈を超える深さ。確かに、イリエワニの”狩り場”としてはバッチリだ。

 

 ただ、英軍側の公式記録を見ても「500人の日本兵が戦死し、20名が捕虜となった」とあるだけで、ワニに喰われたという記述はない。一方、ラムリー島の戦闘で従軍していたロイターの記者が2月24日付の記事で「日本兵の多くがワニに喰われた」と報じている。さらに、この戦闘に参加した英軍兵で、後にカナダで博物学者となったブルース・ライトが著書の中で、こんな証言を残している。

 

「人生でもっとも恐ろしい夜だった。真っ暗な沼地に響く巨大なワニのあごで噛み砕かれた日本兵の悲鳴と散発的な銃声、ワニが(獲物にとどめを刺すため)体をくねらせる音もあちこちで鳴り響き地獄のようだった(中略)ラムリーの沼地に入った1000人の日本兵のうち、生存が確認されたのはわずか20人だった」