■小学1年生を市中引き回しで斬首した家康?
最終回まで残り3回となった(注1)、NHK大河ドラマ『どうする家康』。クライマックスはもちろん1615年(慶長二十のち元和元年)の大坂夏の陣。徳川家康(演・松本潤)率いる16万人を超す軍勢に包囲され、大阪城は落城、豊臣秀頼(演・作間龍斗)、淀殿(演・北川景子)らは自刃。
注1/記事執筆時は2023年11月末
大阪城から落ち延びた秀頼の息子・国松も、落城から約2週間後、京都・伏見に潜伏していたところを捕まり、市中引き回しのうえ京都・六条河原で斬首された。享年8。よく「8歳で殺された」とあるが、当時のことで当然数え年。誕生は1608年(慶長十三)とされるので、いまの感覚でいえば6~7歳。小学校1年生かそこらの子どもに惨い仕打ちだ。
──というのは、われわれ現代人の感覚。当時でいえば、敵方の一族、特に男子は後の災いを避けるため皆殺しにするのが(あるいは仏門に入れて武家社会的に抹殺)するのが当たり前。いわば「戦国の常識」というわけだ。
■実の甥でも殺すし、女子供皆殺しの例も
たとえば、前出の淀殿にとって実の兄にあたる浅井万福丸(浅井長政の長子)は10歳になるやならずで磔にされた。しかも、指令を出したのは実の叔父にあたる織田信長(演・岡田准一)。さらに、淀殿の夫である豊臣秀吉(演・ムロツヨシ)はもっと酷い。
代表的なのは秀吉の甥・豊臣秀次の子供たち。数え5歳になる長男の仙千代丸をかしらに5人の幼児を三条河原で処刑。秀吉の天下統一最後の戦いともいわれる「九戸政実の乱」では、「城を明け渡したら全員助命」と伝えておきながら、開城してみれば非戦闘員の女性も子供も皆殺し(城内の一部屋に押し込めて焼き殺したという説も)。
これ以外にも、一族根絶やしとか敵方への見せしめに女性は磔、子供は串刺しなど、いくら「戦国の常識」とはいえ、残虐行為のオンパレード。秀吉の子や孫が悲惨な最期を遂げたのも、こうした犠牲者の怨念のなせる業かもしれない……。
■秀吉の手を逃れた光秀の子孫は意外な人
しかし、その一方でこんな残酷な戦国ルールから辛くも逃れ、生き延びた武将の子供たちも実は存在する。
まずは、大河『どうする家康』で何かと家康に嫌がらせをする厭味ったらしい人物に描かれていた明智光秀(演・酒向芳)の子供たちだ。豊臣秀吉に「主君・織田信長の仇」として討たれた際、長子の十五郎光慶(十兵衛とも)は、本拠地・坂本城で自害したとされるが、実は落ち延びて僧侶になったという説も根強く囁かれている。
また、そもそも光秀は子だくさんで一般的には3~6人の男児がいるとされるが、庶子を入れるとさらにその数はべらぼうに増え、しかもそれぞれに生存伝説がある。そのため、現在でも「私は明智光秀直系の子孫」と伝える家は少なくない。歴史研究家で『本能寺の変四二七年目の真実』などの著作で知られる明智憲三郎氏は、自身を側室の子・於隺丸(おづるまる)の子孫と主張している(注1)。
注1/詳しくは明智氏の著書『明智家の末裔たち』をご参照のほどを
さらに、その明智氏がTBSのバラエティー番組で「光秀の直系子孫」と太鼓判を押したのが、なんとラジオDJのクリス・ぺプラ―氏(注2)。また、男系ではなく長女・たま(後の細川ガラシャ)の系統でいえば、辛口の政治評論家で知られた故・細川隆一郎、さらにはなんと、孝明天皇も光秀の血を継いでいるという。
注2/前出の明智健三郎氏は、土岐家に養子に入った光秀の次男の可能性が非常に高いと『明智家の末裔たち』で解説している。