■【第一夜】ぴーこわい

 

 馬場さんは結婚一年目、美人な奥さんとのあいだに男の子を授かり、1DKのマンションで親子三人、楽しく暮らしていた。子どもは二歳を目前としたころからしゃべりはじめたが、車が好きらしく、救急車を「ぴーぽーぴーぽー」、消防車を「うー」と、サイレンの音で表現していたという。

 

 そんな息子があるときから救急車を怖がるようになった。家の中にいても、外から救急車のサイレンが聞こえると、「ぴーぽーこわい」と言いながら馬場さんにすがるようになった。

 

 馬場さんは可愛いと思いながら少し意地悪な感情が芽生え、救急車のサイレンが聴こえない時でも、「ぴーぽーこわいの?」と訊いてみたりした。子どもは、

 

「ぴーこわい、ぴーこわい」

 

 そう答えた。ぴーぽーを略するようになったか横着ものめ……と微笑ましく思っていたが、やがて子どもの様子がおかしくなっていった。

 

 何もない空間を指さし、

 

「ぴーこわい、ぴーこわい」

 

 と言うようになったのだ。

 

 馬場さんは別に気にしていなかったのだが、心配したのは馬場さんの奥さんである。神秘的なものを信じる彼女はあるとき、馬場さんが仕事でいないあいだに霊感のある友人を部屋に呼んだ。

 

「この部屋、霊がいるよ」

 

 友人は玄関を入るなりそう言った。

 

「外国人の霊だね」

 

 どういう経緯かわからないが、その部屋に居ついてしまい、離れることができずにいるとのことだった。

 

「この子、ちょっと霊感があって、その霊に気づいているんだね」

 

 男の子の頭をなでながら、霊感のある友人はそう続けた。
 

 いわく、男の子が指差している何もない空間にその外国人霊はいて、男の子に向かって「お父さんとお母さんには言うな」というしぐさをしているらしい。どうやら気づかれて除霊されるのを恐れているらしい。

 

「悪意はまったく感じないから、放っておいて平気だと思うけど」

「救急車に運ばれて死んだ霊なのかな?」

 

 ぴーぽーこわい、ぴーこわい、という子どものフレーズが心に残っていた奥さんはそう訊ねたが、

 

「さあ、それはわからない」

 

 友人は首をかしげた。

 帰宅後、奥さんからその話を聞かされた馬場さんはさすがに気味悪く思ったが、すぐに引っ越しができるほどの経済的余裕はなかった。結局、「実害がないなら別にいいだろ」とその部屋に住み続けた。

 

子どもは相変わらず何かが見えているようだったが、夫婦にはまったく見えなかった。怪我(けが)や大きな病気など、特に災難も起こらず、時折子どもが変なことを口走る以外は平穏な日々が流れた――。

 

 

 

 初めて馬場さんからこの話を聞いてから数年後(たしか二〇一八年だったと思う)、僕は馬場さんと再会した。

 

 すでに引っ越したあとだったが僕は気になったので、

 

「霊感のある息子さん、最近どうですか?」

 

 と訊ねた。すると、

 

「うちの息子、霊感なんてまったくないと思うぜ」

 

 馬場さんは笑った。それどころか、怖い話はまったく苦手で、ゲゲゲの鬼太郎がテレビに映ったくらいでチャンネルを変えてほしいと泣きべそをかくくらいなのだという。なんだ、とがっかりする僕に、

 

「ただ俺、あのころ息子が言っていた『ぴーこわい』っていう言葉ついては、最近ふと思ったことがあるんだ」

 

 と、馬場さんは続けた。

 

「嫁の友人の話によれば、あの部屋にいたの、外国人の霊なんだよ。で、うちの息子にだけ見えていて、霊は放っておいてほしいって思っていたんだよな。だからさ、……ひょっとしたらその霊、『Be quiet(ビー・クワイエット)』って言ってたんじゃないのかな」

 

 自分の存在を、あんたのお父さんとお母さんには教えてくれるな。黙っておいてくれ、という意味で「Be quiet」と告げていた。二歳に満たない息子は、その霊を指さしながら、発言を繰り返すように「ぴーこわい」と言っていた――。

 

「息子さんは何て言ってるんです?」

 

 僕は訊ねたが、

 

「二歳になる前のことなんて覚えているわけないだろ。まあ、ふと思った話だよ。そもそも俺、あの部屋の外国人霊のことだって信じちゃいないんだから」

 

 馬場さんは自分の説を笑い飛ばした。

 そのマンションがまだあるかどうかは知らない。

 

【了】

 

怪談青柳屋敷
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『赤ずきん、旅の途中で死体と出会う。』『浜村渚の計算ノート』『怪談刑事』などで知られる人気ミステリ作家・青柳碧人による初の実話怪談集。「怖い」だけでなく奇妙で不思議な怪異譚を集めた怪しい館。どうぞご遠慮なくドアをお開け下さい──。

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