【第八夜】「落ち武者」(『怪談青柳屋敷』より)
三田さんは出版社の宣伝部に勤める三十代後半の女性だが、以前はまったく違う業種の会社に勤務していた。
その頃、一人暮らしをしていたマンションで変なことが起きるようになった。
三田さんは洗濯した下着を、タンスではなく風呂場の脱衣所に置いておく習慣がある。そうしておけば、風呂から上がったときにすぐ身に着けられるからだ。
ところがある日、風呂から出たとき、下着が一つ、洗面台のほうに置かれていた。
(あれ、こんなところに置いたかな)
記憶をたどってみたが、どうも覚えがない。
以降、部屋の中で小物が、どう考えても自分ではそこに置かないだろうというところに置かれているという現象が多発した。
(どうしよう。失くしているわけじゃないから被害届は出せないけど、気持ち悪いなあ……)
そんなことを思っていた矢先、以前から知り合いだった違う部署の柴田という先輩男性社員が「視(み)える人」だということを知った。相談があるんですと言って、一度食事をすることになった。
待ち合わせの店に行き、テーブルを挟んで向かい合うなり、まだ下着の件を話していないうちから
「最近、どこに行った?」
柴田先輩は眉をひそめて訊ねてきた。
三田さんは寺社仏閣を巡るのが趣味だったので、そのうちのどこかのことを言っているのだろうと思い、変なことが起き始める少し前に訪れた場所を思い出せる限り並べた。
「ああ、じゃあ、そのうちのどこかから連れてきたのかな」
「連れてきた、って。何かついているんですか、私?」
「落ち武者が憑いてるよ」
鎧を着て、額から血を流したものが見えるというのだった。
「えっ、どうすればいいですか?」
慄(おのの)きながら訊ねると、
「神奈川県にあるD神社ってところが、祓ってくれるよ。俺もよく行くから紹介してやるよ」
かくして三田さんはその次の週末、D神社に行ってお祓いをしてもらった。そして、何やらありがたげな木の札をいただいて帰った。
それ以来、部屋の中で小物が移動するという現象はぴたりと止んだ。ああ、効果があったんだなと思いながらすごしていると、ある日、会社でエレベーターを降りるとき、ばったり柴田先輩に会った。
「ああ、先輩。こないだはありがとうございました。お祓い、行ってきましたよ。もう、憑いてませんか?」
一歩、足を踏み出す三田さん。すると柴田先輩は三田さんから逃げるように一歩後ずさった。顔色は悪い。三田さんは生まれて初めて、人が額に玉のような汗を浮かべる姿を見たという。
「どうかしたんですか?」
「落ち武者が……俺のことを睨みつけている」
落ち武者はまだ憑いていた。そして、お祓いに行けと三田さんに入れ知恵をした柴田先輩に再会するのをずっと待っていたというのだった。
「悪い!」
柴田先輩はエレベーターに乗らず、三田さんから逃げていった。
すっかり祓えていたと思っていた三田さんにすれば、なんとも据わりが悪い。とりあえず帰宅してから、D神社でいただいた木札にパンパンと柏手(かしわで)を打ち、
「すみません。私には何もできません。すみません。私には何もできません……」
一時間ばかり拝み続けた。
翌日、会社で柴田先輩のところへ行くと、
「あ、もう大丈夫だ」
けろりとした表情で、先輩は言った。憑いていることは憑いているが、もう落ち武者のはっきりした形ではなく、黒いもやのようなものになっているという。
「これなら俺にも祓えるからやってあげるね」
柴田先輩は手で印のようなものを組み、陰陽師のようにえい、えい、と振り、「完全にいなくなったよ」と言った。
【了】