■数百万人を殺した「世界で最も危険な書物」

アウシュビッツ

アウシュビッツ(ビルケナウ)収容所。この悲劇のきっかけも一冊の偽書だった。

画像:Public Domain via Wikimedia Commons

 20世紀が幕を開けて間もないころ、世界の近代史に大きな影響を与えた冊子が出回った。タイトルは「シオン賢者の議定書」The Protocols of the Eldears of Zion)。冊子は100ページ程度で、「シオン長老の議定書」や「プロトコル(=議定書)」とも呼ばれる。

 

 この冊子は、ユダヤ人の長老たちが世界征服を企み、また世界を裏から操るため密かに開かれた会議の議事録といわれていた。その内容は「自由主義思想批判」「世界征服のための方法」「確立される世界政府の方針」が主な骨子になっていて、

 

「社会に秩序をもたらすためには専制君主を再び呼び戻し、このときユダヤ王が君主として迎えられる」

 

と、ユダヤ王の下での“新世界秩序”が唱えているとされる。

 

 後にロシア各地でのユダヤ人虐殺(後述)や、ナチス・ドイツのホロコースト政策にまで影響を与え、いわば600万人以上を殺した(注1)「世界で最も危険な書」は、いったいどのようにして誕生し、伝染病のように広まったのだろうか──?

注1/ナチス・ドイツによるホローコストの犠牲者だけで600万人とされ、ロシア帝国内での犠牲者は数千人から数万人と諸説あり総数は不明。

 

 

■世界で初めて登場したのはロシア帝国

セルゲイ・ニルス

ロシアで『議定書』全文を公開したセルゲイ・ニルス。

画像:Victor Emile Marden, Public domain, via Wikimedia Commons

 世の中に初めて登場したのは1902年のこと。ロシア・サンクトペテルブルクの新聞「新時代」の紙上で、ジャーナリストのミハイル・メンシコフがコラムで紹介。ただしメンシコフは、批判的に表現している。

 

 しかしその翌年、「ズナミヤ」(ロシア語で「旗」)という新聞が8月~9月にかけて「議定書」の抄訳版を出版。「ズナミヤ」は反ユダヤ主義の極右新聞で、これにより「議定書」は世界に知られることとなる。

 

 さらに1905年、神秘思想家のセルゲイ・ニルスが自身の著書の末尾に全文を収録しただけでなく、ロシア皇帝ニコライ二世に献上までしたのだ。「議定書」が載ったニルスの著書は、本文よりもオマケの「議定書」のほうが話題を呼んで大ヒット。最終的には1917年に第四版まで増刷され、そのたびに「フリーメイソンから流出した」などの尾ひれも付いていく。

 

■世界各国で「プロトコル」の大ブームが

ヘンリー・フォード

全米に『議定書』を広めた自動車王・ヘンリー・フォード。

画像:New York, Public domain, via Wikimedia Commons

 ロシア帝国は1917年のロシア革命で滅亡するが、「プロトコル(議定書)」は1920年にドイツで『シオン賢者の秘密』として刊行された(これがロシア語からの初の翻訳版)。同年にはイギリスでも英語版の『ユダヤ人の危機』(The Jewish Peril)として発刊される。

 

 さらに、アメリカでも世界的自動車メーカー、フォードを率いる「自動車王」のヘンリー・フォードが自らが所有する新聞で「議定書」を下敷きにした反ユダヤ主義的記事を連載。赤字で廃刊目前だった新聞は公倍数がうなぎのぼりに。そして、その記事をまとめた『国際ユダヤ人』という題名で出版。しかも、初版は50万部ともいわれる大ベストセラーとなった。

 

 これは例えるなら、松下電器産業(現パナソニック)の創業者で“経営の神様”と謳われた松下幸之助や、現在で言うのならトヨタ自動車の豊田章男会長が反ユダヤ主義の陰謀論本を出すようなもの。いかにショッキングな話か、おわかりいただけるだろう。

 

 また、日本にも1918年からの「シベリア出兵」の際に、反革命派のロシア軍人から日本軍将校に手渡され、すでに1900年代前半には数々の邦訳版が作られていた。こうして全世界に「シオン賢者の議定書」は知れ渡ったのだ。