■打算的な一面もあった司令長官
太平洋戦争初期の連合艦隊司令長官が山本五十六(やまもといそろく)大将である。大艦巨砲主義に囚われた帝国海軍でいち早く航空主義に目覚め、真珠湾奇襲攻撃を成功させた功績は、世界の軍事史でも大きな意味を持つだろう。
部下からの人望も厚く、情報漏洩(ろうえい)によるアメリカ軍の奇襲で戦死するという悲劇性も相まって、今なお人気の高い軍人でもある。
航空戦力の充実化、日独伊三国同盟に対する洞察力、日米戦争に対する必敗の見通しなど、五十六の戦略眼にもずば抜けたものがあった。だが、この世に完璧な軍人も善人もいない。もちろん五十六にも、失態もあれば打算的な一面もあったのだ。
たとえば、1935年(昭和10)に横須賀海軍航空隊での訓示で、五十六は戦艦を「床の間の置物」と揶揄(やゆ)しつつも「国際的には海軍力の象徴」と影響力を認め、戦艦廃止論に釘を刺している。五十六は「航空主兵論」を主張しつつ、海軍内の政治的安定を保つために戦艦派へも忖度(そんたく)していたようだ。
■五十六が無差別爆撃を発案?
そして、日中戦争における無差別爆撃の引き金とも呼ばれている南京渡洋爆撃を発案指揮したのが、五十六だという説がある。
歴史家の笠原十九司(かさはらとくし)氏によると、渡洋爆撃隊を指揮した戸塚道太郎(とつかみちたろう)大佐は、航空本部長時代の五十六が抜擢した人物。爆撃を行なった九六式陸攻は、五十六が戦力化を進めた兵器である。
さらに戸塚は、作戦後に「203高地にも等しい心境」で挑んだと述懐しており、笠原氏はこれを五十六から託されたものと解釈している(『海軍の日中戦争』より)。
これをもって、中国への無差別爆撃は五十六の発案だとする説もある。これが本当なら、五十六は民間人の殺傷も黙認していたことになるだろう。しかし、当時は海軍次官なので作戦指揮の権限はなく、爆撃を立案した証拠も今のところは見つかっていない。