■時代ごとに変化する秀吉像
豊臣秀吉ほど、評価が二転三転した戦国武将はいないかもしれない。
秀吉といえば庶民から天下人になりあがった大英雄であり、大阪では今でも「太閤さん」と呼んで、親しみを感じる人も多い。
だが江戸時代の秀吉は、徳川史観のもとで弾圧されたといわれている。実際、『甫庵太閤記(ほあんたいこうき)』や『絵本太閤記』などの秀吉の立身出世を描いた読み物は、幕府からたびたび発禁処分を下されていた。
その反面、庶民のあいだで秀吉人気は根強く続いていた。先に挙げた読み物も上方を中心にベストセラーとなったからこそ、幕府は厳しい監視の目を光らせていたのだ。貧しい農民からの立身出世というストーリーは、身分制度でガチガチの幕藩支配に生きる人々には、まさに夢のような話だったのだろう。
■戦意高揚に利用された秀吉
では、秀吉に手厳しい徳川時代が終わり、明治時代以降の秀吉はどんなイメージだったのだろうか? 現代の読者の方々には意外かもしれないが、当時、秀吉は公式な評価として天皇や朝廷に忠誠の篤い「尊王の人」と呼ばれた。というのも、明治政府が秀吉の朝鮮出兵を海外進出の先駆けと宣伝し、アジア侵攻の正当化に利用したからだ。
実際、1901年(明治34)には中学唱歌の「豊太閤」が作曲され、国定教科書でも勤皇と海外進出の英雄像が強調されていく。こうした「尊王の人」としてのイメージにより、戦時中は戦意高揚にも利用された。
戦後は再び、秀吉のイメージに変化が生まれる。産業と文化振興の立役者としての側面が強調されるものの、「朝鮮出兵」は侵略行為として否定される。さらに高度成長期からバブル期にかけては立身出世の象徴とされ、現在はゲームや漫画、ドラマなどの影響によって、「人たらしの知恵者」というイメージも強い。
■秀吉は本当に人たらしだったのか
まさに時代や情勢によってイメージが変化し続けてきた秀吉。明治から大正時代の歴史家、山路愛山(やまじあいざん)や徳富蘇峰(とくとみそほう)などは、秀吉は敵を味方にする力に長け、人心掌握術が天下統一の決め手のひとつとしている。
ただし、秀吉の人望を裏付ける証拠はない。蜂須賀小六(はちすかころく)との矢矧川(やはずがわ)の出会いや、徳川家康との大坂城登城前夜の密会内容といったエピソードは、ほぼすべてが江戸時代以降の創作である。
しかし、秀吉が多くの武将を懐柔したのもまた事実だ。ただし、その方法は主に「カネ」と「モノ」。たとえば、1584年(天正12)の小牧・長久手の戦いで、秀吉は池田恒興(いけだつねおき)を味方にするべく尾張一国(尾張・美濃・三河の三国説あり)を報酬とした。また大名の調略も、基本的には所領安堵や利益を見返りにする。
1589年(天正17)には京都の聚楽第(じゅらくだい)で貴族や諸大名に金銀を分配しており、モノ、カネ、接待で自陣営に引き入れるのが秀吉の基本方針。誠意で味方にした事例は史料で裏付けられていない。相手の欲求を見抜き、欲しがる物を的確に与えるのも人心掌握術といえなくはないが……。
その一方で、豊臣秀吉といえば特に後半生は残虐なエピソードも絶えない。ここからは秀吉の「ダークサイド」を見ていこう。