■財政改善を狙ってあの手この手
意次の政策は、側近時代の1760年(宝暦10)から始まっていた。まずは株仲間という組合を公認し、その代わりに「冥加金(みょううがきん)と運上金(うんじょうきん)」といういわば法人税を商人たちから徴収。
さらに専売制の導入や貿易拡大による積極的な経済策を展開し、市場の活性化を目指した。東西で違った貨幣も統一を目指し、蝦夷地(北海道)の開拓のほか、商人資本による新田の開発も進めていた。
こうした商業振興策によって、江戸の商業は一気に活性化。町人文化も発展を見せ、平賀源内、杉田玄白、蔦屋重三郎といった文化人が活躍することになる。
■「汚職政治家」意次の実像は?
意次の汚職については、一部本当だ。ただし、戦前の通説ほどの悪人ではないようだ。
そもそも、意次の悪事を告発する史料は信憑性が低い。意次の風刺画とされた「まいない鳥」と「まいないつぶれ」は、亡くなってから50年後の代物。
これまで、田沼政治の腐敗ぶりを告発した書物とされてきた『植崎九八郎上書』や『よしの冊子』は、意次を追い落とし、田沼時代の政策を全否定して「寛政の改革」を実行した老中・松平定信(まつだいらさだのぶ)の正当化のため意次を必要以上に貶めたという。このように不正に関する史料や証言は、あまり信頼できないのだ。
■天明の大飢饉で一巻の終わり?
とはいえ、意次が賄賂を貰っていたとする説も根強い。とはいえ、当時は「付け届け」とも呼ばれ、役人のあいだでは当たり前の行為だった。平戸藩主・松浦静山の『甲子夜話(かっしやわ)』にも、田沼邸からあふれるほどに客人が押し寄せる光景が記録されており、そこでやり取りがあっても不思議ではない。
しかし、意次の目的は幕府の財政改善であって、民衆のためではない。そのため意次が推し進めた商業政策や貨幣経済に、都市部に比べ恩恵が少なかった農村部に不満が溜まる。そのうえ異常気象や疫病も発生し、1782~1788(天明2~8)年に起こった「天明の大飢饉」への対応も満足には行なわれなかった。そのため一揆や打ちこわしが相次ぎ、意次は1786(天明6)年に失脚する。
晩年には「遺訓七箇条」を残しており、その3条から7条で、部下へのえこひいきを戒め、農民や町人への重税も害としていた。清廉潔白ではないにせよ、不誠実な人間ではないのは確かなようだ。
『田沼意次 御不審を蒙ること、身に覚えなし』藤田覚著(ミネルヴァ書房)
『開国前夜 田沼時代の輝き』鈴木由紀子著(新潮社)
『「悪の歴史」日本編【下】』関幸彦編(清水書院)
『田沼時代』辻善之助著(岩波書店)