■1920年代までさかのぼる中国のラフプレー

 遠い昔の歴史を紐解いても、中国のラフプレーには悩まされてきた歴史がある。

 日本サッカーの揺籃期だった1920年代には日本のチームは極東選手権大会という大会で中国(香港の南華体育会=サウスチャイナ)に挑み続けていた。当時、英国の直轄植民地になっていた香港では19世紀末以来支配者たる英国人と交流していたためサッカーが盛んで、東アジアにおけるサッカー先進地域だったのだ。中でも、南華は香港そして中国の最強チームとして中国を代表して極東大会に出場していた。

 初期の頃には日本のチームは中国(南華)相手にまったく敵わなかったのだが、中国を目標に強化を続けた末、1930年に東京で行われた試合で初めて引き分けて両者優勝となるまでに成長し、それが1936年のベルリン・オリンピックでスウェーデンを破るという快挙につながっていく。

 当時、中国はたしかに東アジアの強豪だった。だが、当時も中国チームのラフプレーには日本はさんざん悩まされており、日本のサッカーの初めての海外遠征となった1921年の第5回極東選手権大会(上海)での中国戦では、日本チーム(全関東蹴球団)の大新田勝海が額を蹴られて骨膜に達する重傷を負うなど負傷者続出となり、0対4で敗れたという記録が残っている。

 いつの時代にも、中国との対戦では常にこうした危険を意識しておかなければいけないのだ。

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