そんなふうに、日々、権臣や国の危機に悩まされてきた明宗だが、もっとも彼を苦しめたのは、ほかでもない母・文定王后だった。彼女は、自分の望みを紙に書いては王のもとへ送り、それが受け入れられないと「あなたが王になったのは私のおかげだ」と叩いたしりして、苦しめたそうだ。
いまでいう「毒母」だろう。だが、明宗は毎日3度のご機嫌うかがいを欠かさず、外出時にはそれを知らせ、帰ってくる報告する礼をきっちり守りおろそかにすることはなかった。孝行息子であるがゆえに母の暴政を止めることもできなかったのかもしれない。
1565年、文定王后が亡くなり、ついに明宗は、叔父であるユン・ウォニョン一派、そして、一部では妖僧とも記される普雨(ポウウ)を排除。ようやく人材を均等に登用し、まっとうな政治を行うように全力を注ぐ。すると朝廷は安定し、社会も次第に秩序が戻ってくるように。
だが、それまでの心労、そして、一人息子・順懐世子(スネセジャ)が12歳で亡くなった悲しみからも立ち直ることができず、心を患っていた明宗は、わずか2年後、33歳でこの世を去った。もう少し生きられたら、名君になれたのかもしれないが、ストレスのせいとは……なんとも心が痛む。
そして彼が密かに世継ぎと考え帝王学を学ばせていた、甥の河城君(ハソングン)が、即位。14代王・宣祖が誕生するのである。