しかし、ここで終わらなかった。元に戻ったウォンは、元の皇帝争いに乗じて出世を果たす。支持する皇族が皇帝となったのだ。ウォンには藩王(瀋陽地域の領主、高麗王より位が高い)の爵位が与えられ、再び権力を握ることに。一方の忠烈王は、ウォンを潰すことばかりに熱心で政治を疎かにし、側近の信頼を失うばかりか、高麗を混乱させた。
そして1308年、忠烈王が亡くなり、10年ぶりに再びウォンが高麗王を継ぐこととなる。
だが、ここでまた問題が発生。高麗での生活が水に合わないのか、ウォンは、すぐに元に戻ってしまうのである。元に住みながら、国法の確立、租税の公平、人材登用法や農業の奨励、寺と貴族による塩の独占を防ぐなど、国政を動かすウォン。結局、5年間、1度も高麗に戻ることがなかった。
「王が国にいない」この事態に多くの部下が混乱し反発した。また、元に滞在する彼の生活費は高麗の民の税から捻出されることも不満を呼ぶ。一方で、ウォンは権力の維持に執着していく。自分も父同様、我が子の野心を疑うようになり、世子とその勢力を粛清することもいとわなかった。
この状況を好ましく思わない元の皇帝に帰国を促されたウォンは、次男の江陵大君(忠陵王)に譲位。自分は燕京に留まり、古典の研究などに勤しみながら、上王として高麗に干渉を続けた。一方で藩王の地位は、息子のように寵愛した(父・忠烈王の最初の妃の血筋である)甥のワン・ゴ(『奇皇后 ふたつの愛 涙の誓い』のイ・ジェヨン)に譲る。高麗王がもつべきふたつの王位を別々の人物に譲ったことが、のちのちまで高麗王室を混乱させるのだが、その話はまた別の機会に。
その後、元の権力争いに巻き込まれ流刑されることもあったが、1325年に大都(いまの北京)で亡くなるまで、生涯を元で過ごしたウォン。結局のところ、元での生活を選び、高麗の民を省みなかった人物というのが世の評価となっている。