戦は約2カ月で終わった。仁祖自ら、3度跪き頭を地面に打ち付ける挨拶を3セット繰り返す、三跨九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼を行って、臣下として清の許しを乞う羽目となった。

 それまでオランケ(北狄)とさげすんでいた人々に屈することになったのだから、仁祖にとっては無論、朝鮮にとって屈辱的な出来事だったといえるだろう。(「三田渡の恥辱」の名で記憶されている、この戦での朝廷の混乱はイ・ビョンホン主演の映画『天命の城』で詳しく描かれている)

 この敗北で、黄金100両や白銀1000両、牛や馬、水牛の角や豹皮などの物資の提供はもちろん、息子の昭顕(ソヒョン)世子や鳳林大君(ポンニムテグン)を筆頭とした臣民が、清の人質にされた。連行された民の数は約50万人にも達したそうだ。さらに清軍は帰国途中で略奪も行い、多くの民が露頭に迷った。

 『恋人』のジャンヒョンのように、捕虜を解放するため、清側に身代金を払って身内や民を救おうとする者がいる一方で、連れ去られた人々は、帰国後もさまざまな疑惑・を向けられ、苦しむことも多かった。

 そんなふうに、2度の戦乱で山河は荒れ、人は減り、民の暮らしは疲弊する。

■玉座を奪われると疑心暗鬼になり、息子・昭顕世子を毒殺!?

 だが、仁祖は、清による耐えがたい恥辱から逃れるべく、民の苦しみを理解するより反清路線を強めるほうを選択した。滅びゆく明へのさらなる傾倒は、時代の流れに完全に逆らうものだった。

 やがて仁祖は、人質として清に滞在する昭顕世子が清に傾倒していると、ことのほか嫌うようになる。

 世子と世子妃の行動を逐一監視させ、世子が清との調整役を担い、国のために清から学ぼうとする姿勢を「王位継承者としてあるまじき行為」と非難した。

 そして、清が世子に王位を譲れと言われるのではないかと考えるようになり、疑心暗鬼となっていく。

 さらに悪いことに、仁祖のそばには息子の崇善君(スンソングン)を王の後継にしたいと目論む側室のチョ氏がいた。チョ氏は、仁祖の寵愛をいいことに、気に入らない人物を王の前で貶めるなど、謀略を図った。昭顕世子とその妻・姜嬪(カンビン)のことも敵視し、よからぬ話を仁祖に吹き込んだといわれている。

 そんななか、8年の人質生活を終えた世子が帰国。だが、約2カ月後に急死する。

 仁祖がその葬儀を一般の平民の葬儀に準ずる手順を踏んだこと、世子の息子を世継ぎにせず、世子の弟の鳳林大君を指名したことなどから、仁祖側の毒殺(チョ氏が手を回した)説がまことしやかに囁かれるように。今もなお、さまざまな作品で、世子毒殺エピドードが描かれ続けている。

 仁祖の在位は24年なのだが、在位中の成果も特にないといわれている。社会の変化に気づかず戦火を呼んだ、その即位こそが朝鮮の民の“苦難のはじまり”と断ずる歴史家もいるほどだ。

 復讐で王位に就いたものの、王としての成果はなく、さらに息子の毒殺疑惑まで、つくづく悪役が似合う王だといわざるをえない。復讐心や恥辱では国は治められないのだ。