■犠牲者Bの「空白の1日」とは?
乱れに乱れた文字でメモを記していたとき、明らかにBの身に何かが起こっていた。それがいつ起こったのかはわからない。
ただ、30日の13時半ごろに捜索隊がBの遺体を発見したとき、遺体は死後硬直が解け切っていなかったという。通常、死後硬直が始まるのは死亡してから2時間ほど。8~12時間で全身に硬直がいきわたり、おおよそ2日ほどで硬直が解けるそうだ(注3)。ということは、少なくともテントを脱出したと思われる27日早朝から28日の昼過ぎまで彼は生存していたと推測できるのだ。
注3/正確には年齢や筋肉量、また季節や環境により2日~4日で変動するという。
第一の犠牲者はC、第二の犠牲者はA、そして最後の犠牲者がBだった。生存者の証言や事故や遺体の状況からも、それは明らかだ。ただ、Bの死には疑問が残る。判別できない文字のみならず、亡くなるまで彼はメモを手放さなかったのだ。そして、Aが命を落とし佐藤と高橋が山を下ったときも彼は生きていた可能性が高い。いったい「空白の1日」の間に、彼に何が起こっていたのか──。
すでにふたりを殺害しているヒグマが、通常の生態からは考えられないほど執拗にBを追っていたのはたしかだ。ヒグマは臆病で、なおかつ頭が良い。そこまですれば、自分の身が危うくなることを察知していなかったはずはないのに──。
■事故から半世紀過ぎても謎は残る
53年の時がすぎた。
惨劇の直後から一部の新聞は「事前調査が甘い」「北海道の山を知らない」と5人の不注意を批判し、責め立てたそうだ。彼らへの誤解は現在まで続いている。登山計画書、装備、ヒグマが出た時に火を焚き、音を鳴らしたこと──ただひとつ、間違いがあったとすれば、一度ヒグマが食べたものをテントに入れたことだけなのだ。
当時、ツキノワグマさえ絶滅したと言われる九州にいた彼らだけではなく、事件直後にまとめられた「福岡大ワンゲル部ヒグマ襲撃事件報告書」も、その危険性は明記していない。クマのよく出没する地域の人々は知っていたかもしれないが、1970年、全国的にその習性が知られていたかというと疑問が残る。
報告書にも、もちろんBがヒグマに命を奪われるまでの詳細はない。A、B、Cの遺体は悪天候のため山から麓へ運び出せず、7月31日午後5時、山中で火葬、Bの最期に関する謎もまた、今も山に取り残されている。
保存版「福岡大ワンゲル部ヒグマ襲撃事件報告書」(昭和45年8月 福岡市七隈11番地
福岡大学体育会 ワンダーフォーゲル同好会)
https://yamahack.com/4450/2#content_17
朝日新聞DIGITAL「クマに死んだふりは有効か 8回襲われた専門家の教え」https://www.asahi.com/articles/ASNBT76GDNBRUTIL01Y.html
福岡大学ワンゲル部羆事件ドキュメント(北海道放送、1984年)