【第六夜】「犬のいる家」(『怪談青柳屋敷』より)
自分の体験はもう書きつくしたと思っていたが、急に思い出したのでさしはさむことにする。
中学生の時分の話だ。自宅から学校まで、二通りの通学路があった。ざっくりいえば、団地内にある大きな貯水池(一周一・八キロメートルだったと記憶している)を、左回りで行くAコースと、右回りで行くBコースの二択である。
Aコースのほうは住宅街で、登下校時、友だちともよく会う。Bコースのほうは畑と森、平屋の家がぽつぽつとある、いわゆる田舎道。こちらを使う生徒はあまりいない。
入学当初はAコースをもっぱら使っていたのだが、下校時に一人で考え事をしたい年頃になり、次第に「登校はAコース、下校はBコース」という行動パターンをとるようになった。
このBコース、田舎道なのでおおむね静かなのだが、途中に一か所だけ嫌なポイントがある。庭に三匹の犬がつながれているおんぼろの平屋だ。ここの犬がとにかくよく吠える。誰が通っても歯を剥き出しにして全力で吠える。鎖でつながれているのでとびかかってこられることはないのだが、一度、三輪車に乗っている三歳くらいの男の子が吠えられているのを見て、異常さを感じたほどである。
そして、どんなに吠えても飼い主がたしなめることがない。というか、この家に住んでいるはずの飼い主を見たことがなかった。電気はついているので中にいるらしいが、犬が吠え狂うのを完全に無視しているようだった。
季節は覚えていないが、中二の定期テストの期間だったはずだ。いつもどおりAコースを帰ろうとすると、
「おーい、俺たちも途中までついてっていいか?」
普段は一緒に帰らない別のクラスの友人、かっちゃんと雄一郎(ゆういちろう)が声をかけてきた。二人はそもそも、学校をはさんで僕の家とは逆の地域に住んでいるので、AコースもBコースも使わず、家が遠いので自転車通学を認められている。どうせ自転車なので僕の下校コースについてきても難なく帰れるのだ。
僕は二人とともに、中学生特有の他愛もない話をしながらのどかなBコースを歩いた。そして、犬のいる家の前に差し掛かった。
僕たちに向かって鎖を引きちぎらんばかりに吠える三匹。僕は慣れているから苦笑いだが、雄一郎とかっちゃんはそうはいかず、「おおぅ」と怯んでしまった。
そして、次の瞬間、
「うるせえ、この野郎!」
雄一郎が自転車で犬たちに突っ込んでいった。そして、そのうちの一匹の腹にタイヤを思い切り当てた。きゃいん、とその犬は甲高く鳴いて退却したが、直後にさらに猛り狂ったように吠えだした。
「にげろー」
笑いながら庭から戻ってくる雄一郎。僕はかわいそうだとも思いながら、いつもあんなにうるさい犬が「きゃいん」と鳴いたのがいい気味で、同じく笑ってしまった。
そして、三人でさらに先に進もうとしたそのとき、がらがらと平屋の引き戸が開いた。出てきたのはごま塩頭を丸刈りにした、五十ぐらいの男性。ステテコ姿で、頬に残忍な傷跡があり、まともな仕事をしている人間ではないことは一目でわかった。
「待てよお前ら」
僕らは縮み上がった。自転車の二人だけだったら速攻で逃げていただろうが、歩きの僕がいるために、
「お前らだな、毎日、うちの犬たちをいたぶってくれてるのは」
「い、いえ……」
「お前たちみたいな弱虫のガキどもが、犬をいじめるんだよ。クソガキが」
怖くてあまり覚えていないが、彼はさんざんクソガキ、クソガキと繰り返しながら僕たちに罵倒交じりの説教を三十分ばかりした。「殺す」とかなんとか言われたような気もする。やがて解放されたときには心身ともにへとへとで、
「じゃあ、ここで」
友人二人はその場から、自分たちの家のほうへ一目散に自転車を走らせていった。
その翌日。中間テストを四時限分終え、ホームルームの時間になった。
担任の先生が、
「貯水池の、住宅街じゃないほうの道、あるよね? 登下校にあっちを使っている人、いますか?」
と訊ねた。手を挙げたのはクラスで僕一人だった。
「今日、そっちの道、使わないでくれる?」
先生は僕に向かってそう言った。
「途中に、犬を三匹飼っている家があるでしょ。今朝、一年生の男の子が登校中にその犬に噛まれたんだって」
ああ、あの凶暴な犬ならありうる。心の中で僕は納得した。先生はさらに続けた。
「それでさっき、教頭先生たちがその家に行ったら、誰も出てこなくって。近所の人に聞いたら、もう半月以上姿を見ていないそうなんだ。犬たちも食事を与えられていなくてすっかり痩(や)せてて、それでもすごく吠えてね」
不可解すぎて何も言えなかったが、帰りの挨拶が終わった後、僕は先生のところに行って告げた。
「先生、昨日、僕、あの家のおじさんに会いましたよ」
「そんなはずはないって」
教頭先生の話によれば家の中は荒れ放題で、少なくとも数日間は人が立ち入った形跡がなかったという。
「三匹の犬は、狂犬病のワクチンも打ってなかったってことで、今日の五時ごろ、保健所の人が引き取りに来ることになったから。今日はあっちの道、使わないようにね」
その後、雄一郎とかっちゃんにもあのときおじさんと話したよな? と聞いたけれど、二人は普段そちらの道を使わないのであまり関心がないようだった。
なんとなく怖くなった僕はその後一週間以上、Bコースは使わなかった。久しぶりに使った時にはトラロープで敷地内に入れないようになっていた。静寂の中に遺された鎖と犬小屋が、なんとも寂しそうだった。
【了】