【第七夜】「硫黄島」(『怪談青柳屋敷』より)

 

「私、硫黄島(いおうとう)に行ったことがあるんですよ」

 

 大手出版社・S社の編集者、岡村さんはそう話してくれた。

 

 硫黄島は小笠原(おがさわら)村に属する小島である。第二次世界大戦末期に日米軍による烈(はげ)しい戦闘が繰り広げられたことで知られ、今なお島中に遺骨が散在している。戦争末期に島民はみな本州へ疎開させられ、住民は一人もおらず、今は航空自衛隊の基地がおかれている。

 

 そういう状況なので、年に数回、遺族や旧島民が訪問する他は、一般の民間人は足を踏み入れることが叶わない。しかし岡村さんは、遺族でも旧島民でもないのにこの島を訪れたことがあるというのだ。

 

 2006年、ノンフィクション作家の梯久美子(かけはしくみこ)さんが、栗林忠道(くりばやしただみち/硫黄島激戦における日本軍の指揮官)に関する著書で大宅壮一(おおやそういち)ノンフィクション賞を受賞した。その功績により、「ぜひ駐屯している隊員たちに対する講演をお願いします」と、硫黄島基地から梯さんに依頼があり、担当編集として同行することになったのが、岡村さんだったのである。

 

 旅程は一泊二日。厚木基地を飛行機で発って硫黄島基地に着陸し、その日のうちに講演が行なわれる。夕食を食べて一泊したのち、地下壕(ちかごう)などを見学して昼のうちに再び厚木に戻ってくるというスケジュールだった。

 

 講演は無事に終わり、その日は早々に休むことになった。基地にはゲストルームがあり、岡村さんにも一部屋が与えられた。

 

 やることもないので十時にはベッドに入り就寝した。

 

 眠りに入ってしばらくして、左肩をぐっと強くつかまれる感覚に見舞われ、目が覚めた。

 

「何、やってんだ?」

 

 野太い男性の声が頭のすぐ近くで聞こえ、思わず飛び起きた。電気をつけて見回すが、もちろん誰もいない。肩をつかまれた感覚だけが生々しく残っていた。

 

(戦争のあった島だからな。そういうこともあるのかな……)

 

 普段霊感などまったくない岡村さんでもそう思った。驚きはしたが、不思議と怖さは感じなかった。

 

 翌日も早いのでもう一度眠ろうと思ったとき、ふと、アラームをセットしていないことを思い出した。付き添い編集者の自分が寝坊するわけにはいかない。朝食は七時と聞いていたので、それより一時間早い六時ちょうどに腕時計のアラームをセットして、眠った。

 

 しばらくしたあと、

 

 ――ピピピピ、ピピピピ

 

 アラームの音で目が覚め、反射的に腕時計をとってアラームを解除した。もう六時かと思って身を起こすが、どうもおかしい。カーテンの向こうから光が差し込む様子はなく、壁の外から誰かが動き回るような気配も全く聞こえず、しーんとしている。

 

 手に持ったままの腕時計に目を落とすと、「4:33」となっている。アラーム設定を確認すると、確実に「6:00」となっている。

 

 セットしていない、こんな半端(はんぱ)な時刻に誤作動を起こすだろうか?

 

 それからは気分が落ち着かず、眠れずに過ごし、七時より十五分も前に食堂へ行った。

朝食が始まり、真向かいに座った基地の幹部が、

 

「よく眠れましたか」

 

柔和な顔で訊いてきた。話しやすい人だったのでつい、「実は夜中に……」と、昨晩の経験を話した。

 

「ああ、そういう経験をされましたか。この基地はよくそういうことが起こるんですよ。廊下の奥に人影がさっと通るとか、誰もいない会議室の電気が急に点灯したりとかね。実際に戦闘のあった島ですからね」

 

 さらに幹部は続けた。

 

「今日、地下壕跡などを見学なさるんでしょう? 気を付けてくださいね」

 

 驚かそうという雰囲気ではなく、淡々と注意するような口調が岡村さんには余計に怖く感じられた。

 

 午前中の見学の時間には何もおかしなことは起こらなかった。ところが、昼過ぎに厚木に戻る飛行機に乗り込もうとしたところで、岡村さんは突如、激しい頭痛に襲われた。ついで、信じられないほどの寒気がこみあげてくる。

 

(風邪でもひいたかな。飛行機、酔うかもしれないな)

 

 島を飛び立ち、海の上を飛行しているあいだも頭痛や寒気は収まらず、それでも吐き気はなかった。

 

 やがて、江の島や鵠沼(くげぬま)海岸が見えてきた。飛行機が陸の上にさしかかった瞬間、

 

(あれ……?)

 

 頭痛も寒気も嘘のように収まった。

 

 昨晩の男性だ、と岡村さんは思った。

 

「本土に帰るまで、見送ってくれたんだろうなと思います」

 

 岡村さんは僕にそう語ったが、僕は少し違う印象を受けた。

 

 その軍人は、岡村さんについて本土に帰還したのではないだろうか。

 

 いずれにせよ、階級の高い人の気がしてならない。

 

【了】

 

怪談青柳屋敷
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『赤ずきん、旅の途中で死体と出会う。』『浜村渚の計算ノート』『怪談刑事』などで知られる人気ミステリ作家・青柳碧人による初の実話怪談集。「怖い」だけでなく奇妙で不思議な怪異譚を集めた怪しい館。どうぞご遠慮なくドアをお開け下さい──。

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