【第九夜】「おっぱー」(『怪談青柳屋敷』より)
都内で整体師をしているJさん(女性)は、休みが平日である。運動不足の解消のためにドラクエウォークをはじめた。
その日、自宅を出たのは午後三時ごろ。M通りの歩道を、スマホ片手にずんずん歩いていた。
ふと前方を見ると、ベビーカーを押す親子連れの後ろ姿が見えた。
(あれ、なんかおかしい)
Jさんは思った。
茶髪の若い母親と、小学校にあがらないくらいの女の子の親子連れなのだが、ベビーカーを押しているのが、母親ではなく女の子のほうなのだ。
(まあ、女の子が押したがったのかな)
女の子の歩調に合わせているので親子はだいぶ遅い。追いついていくにつれ、二人の会話が聞こえてきた。保育園の同級生のうわさをしているらしい。だがまたここで、おかしいことに気づく。
二人の会話に関係なく、
「おっぱー、おっぱー」
という声が絶え間なく聞こえているのだ。どうやらベビーカーから聞こえているが、明らかに赤ん坊ではなく、中年男性の低い声だった。
「おっぱー、おっぱー」
母親と女の子はこの声をまるで無視し、話を続けている。
(なにこれ……)
だんだん怖くなってきたJさんのことなど知らず、母親は娘に話しかけ続けている。
「あーあ、今日はお父さんも帰ってくるし、そろそろ、晩ごはんのこと、考えなきゃね」
「おっぱー、おっぱー」
「毎日、献立考えるの、やになっちゃうなあ、今日何作ろ」
「おっぱー、おっぱー」
「ねえ、何が食べたい?」
その質問にかぶせるように、
「おっぱぁぁー!」
ベビーカーからはひときわ大きな中年男性の声が返ってくる。すると、
「うるさいよっ!」
女の子が叫び、自分が押しているベビーカーの持ち手を思い切り叩いた。
「ねえママ、こいつ、うるさいからさ。さっさとおっぱいだけ飲ませて、寝かせちゃえばいいんだよ!」
イライラしている声だった。
これに対し母親は、うーん……と手を伸ばし、
「あーあ、何、つくろっかなー」
まったくの無反応だった。
「おっぱー、おっぱー」
ベビーカーからは相変わらず、さっきのトーンで聞こえ続けている。
(おかしい、おかしい、おかしい……)
Jさんは背筋に寒気を覚えながら、この一団を右から追い越した。ベビーカーの上がどうしても気になったが、すぐに振り返ると不審がられるだろう。「おっぱー」を聞きながら早歩きで進み、十分距離を取ってから、素早く振り返った。
ベビーカーの上には、男児か女児かわからないが、赤ちゃんがいた。目を閉じ、すやすやと眠っていた。
「おっぱー、おっぱー」
中年男性の声は相変わらず聞こえていた。
Jさんは二度と振り返ることなく、その声が聞こえなくなる位置まで足早に立ち去った。
【了】