【第十夜】「どこ行っちゃったのかしら?」(『怪談青柳屋敷』より)
下北沢(しもきたざわ)の美容室に勤めるSさんは、毎日仕事が終わると、環七通りを歩いて帰宅する。
ある日、いつも気になっていたラーメン屋に入った。午後十一時すぎの店内はすいており、カウンターだけの席に、他に客は二、三人しかいなかった。大将一人で切り盛りしている雰囲気のいい店だった。
注文を待っていると突然、ガラガラと出入り口の引き戸が開かれた。ぬっと顔をのぞかせたのは、厚化粧の中年女性だった。
「すみません、うちの娘、来ませんでしたか?」
大将はラーメンを作る手を止め、眉をひそめて彼女を見た。
「娘?」
「うちの娘、今、十七歳で――」
中年女性は、娘の髪型、服装、持っているバッグなどの特徴を早口でまくしたて、
「いつもならこの時間には家に帰っているんですけど、なかなか帰ってこなくて、私、心配で心配で……」
と泣きそうな顔になる。
「いや、来ていないけどな」
「そうですか。まったく、どこ行っちゃったのかしら」
引き戸は閉められ、女性はどこかへ言ってしまった。娘がいなくなったらそりゃ心配だよなとSさんは思った。
それから三、四分が経ったころ、再び引き戸ががらがらと開けられ、さっきと同じ女性が顔をのぞかせた。
「すみません、うちの娘、来ませんでしたか?」
さっきと同じように、髪型、服装、バッグの特徴をまくしたて、いつもならこの時間に――と同じセリフを言う。
「いや、だから来てませんよ」
大将が答えると、「どこ行っちゃったのかしら」と、去っていく。
変な人がいるなぁとSさんは思っていたが、特に気にも留めなかった。
注文したラーメンを食べはじめたころ、彼女はもう一度やってきた。
「すみません、うちの娘、来ませんでしたか?」
さすがに三回目ともなると大将もイライラしており、
「だから来てないって!」
声を荒らげた。女性は臆(おく)する様子もなく娘の髪型、服装、バッグの特徴、いつもならこの時間には――と繰り返す。
「わかったわかった。そういう娘さんが来たら、おうちに帰るようにいいますから」
「お願いします。まったく、どこ行っちゃったのかしら」
女性は首を振り振り、引き戸を閉めた。
「お客さん、お騒がせしてすみませんね」
大将はSさんに謝った。
「よく来る人なんですか?」
「いや、全然知らない人」
大将の笑顔は引きつっていた。
その後Sさんはラーメンを食べ終えた。レジの前で会計を払おうと財布から千円札を出したその瞬間、背後の引き戸が勢いよく開いた。ぎょっとして振り返る。やはり例の中年女性だったが、さっきまでと雰囲気が違った。
石像のように冷静な顔なのである。
固まるSさんと大将の顔を見比べるようにして、彼女は口を開いた。
「ごめんなさい。私、娘なんていなかったわ」
勢いよく引き戸は閉じられる。Sさんと大将は顔を見合わせ、震えあがった。
【了】
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