■NHK大河「光る君へ」で再注目
今年(2024年)のNHK大河ドラマ「光る君へ」の主役のひとりでもある藤原道長(ふじわらのみちなが)。天皇に代って藤原家が政治の中枢を担う「摂関政治」(注1)の最盛期を築いた貴族ではあるのだが、その評判はすこぶる悪い。
注1/摂関とは「摂政」と「関白」のこと。天皇が幼少のときは摂政として、成人後は関白として、ともに政務の補佐や代理をする最も位が上の臣下。藤原氏はこの2つの地位を一族で牛耳って政治を壟断した。
政敵を次々に蹴落とし、外戚(注2)として宮廷政治を牛耳った謀略家――そんなイメージが強かったし、道長までの藤原一族が敵対する人物をおとしいれたり、排斥したりする謀略を重ねてきたのは事実だ。
注2/皇后の一族。道長は後に御一条、後朱雀、後冷泉の外祖父となり権勢を誇った。
ただし、道長が権力を得られたのは、まったくの偶然だ。なにしろ道長は藤原兼家(かねいえ)の五男。妹を除けば一番の末っ子だ。藤原家が代々牛耳ってきた摂政・関白の地位を継げる立場でなく、実際、父の死後は長男の道隆(みちたか)が摂政の座を継いでいる。本来なら、道長は道隆の脇役として歴史に消えるはずだったのだ。
■“タナボタ”で権力を得た末っ子
ところが、道隆は995年(長徳元)に発生した疫病で死亡。次男の道兼(みちかね)も病で倒れ、道長のライバルだった甥の伊周(これちか)も、翌年に起こした花山法皇(かざんほうおう)一行との乱闘騒ぎで流罪となった(注3)。「流罪は伊周失脚を狙う道長の工作の結果」という説もあったが、捜査を主導したのは一条天皇だったので、現在は否定されている。
注3/自分が通っていた女性を花山法皇に横取りされたと勘違いした伊周が弟・隆家とともに女の家に通う途中の花山院一行を襲撃。あわや射殺しかけることに。
こうしてライバルはすべて病死か自滅していき、道長は左大臣に任命された。その後はタナボタの地位を守るため権力闘争に身を投じるのだが、初期に限ればその出世は単なる幸運の賜物だったといえる。
■情緒不安定な小心者だった道長
その後、道長は娘を天皇に嫁がせて地位を固めていく。長女の彰子(注4)を一条天皇に、次女の妍子(けんし/きよこ)を三条天皇に入内させたのに続き、三女の威子(いし/たけこ)までも後一条天皇の中宮(皇后)になると、道長は祝いの席で、
注4/しょうし、あきこ。一条天皇の中宮で紫式部や和泉式部が仕えた。
「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば」
の歌を披露。後に「望月の歌」とも呼ばれるこの歌の、あからさまに自らの権勢を誇示する内容から「藤原道長=傲慢な権力亡者」というイメージが定着してしまった。
ただ、このとき道長は酔っていたようで、しかも、もともと自画自賛の癖があったという。つまり「うれしさ余って飲みすぎて放言したおじさん」と見えなくもない。通説で語られていたような、謀略家らしく傲慢で情け容赦がないという性格ではなく、実は「情緒不安定な小心者」であり、かなりのお調子者だったとも考えられるのだ。
実際、藤原行成(ゆきなり)の日記『権紀(ごんき)』や道長自身の日記『御堂関白記(みどうかんぱくき)』などには、道長の激情っぷりがかなり記録されている。娘の彰子を一条天皇に入内させたときは、取り次いだ行成に「必ず恩に報いるぞ!」と狂喜乱舞し、1022年(治安3)に道長が建てた法成寺に後一条天皇が行幸したときは、感激のあまりに号泣したそうだ。
■感激屋でかんしゃく持ちで小心者?
こんな感激屋な一方で、道長は時には怒りっぽくなった。怒りのターゲットとなったのは、おもに右大臣の藤原顕光(あきみつ)。顕光は自分勝手で、大事な儀式も自己流で進めたがる要注意人物であり、しかも失敗が多い。そのたびに道長は、ガミガミと叱りつけている。
他の面々にも結構厳しく、賞を与える順番、使者の誤認逮捕、朝廷との連絡不備が起きると、多くの人がいる前でも大いに怒り、1014年(長保3)に敦明親王(あつあきらしんのう)と藤原定頼(さだより)の喧嘩騒動があったときなど、三条天皇にまで「無量の悪言」をぶちまけた。
そのくせ、自分の失敗にはすぐ気弱になって、日記で言い訳することしばしば。感激屋なくせに怒りっぽく、それでいて小心者。摂関政治の頂点に君臨した道長は、多面性のある性格だったのだ。
■宗教と文化発展の功労者
意外な一面としてはもうひとつ。道長は同年代の貴族と比べても信心深かかった。仏教界への支援も手厚く、石山寺などによく参詣したばかりか、法華経の講義である法華三十講を含む儀礼や行事の発展にも貢献した。そして、道長自身も五大堂(注5)を建立している。
注5/京都市東山区にある臨済宗東福寺の塔頭寺院である「五大堂 同聚院(ごだいどう どうじゅいん)」
道長が仏教を重んじたのは、強運で権力を得たことへの感謝と、外戚関係の構築と藤原氏繁栄への願いがあったという。晩年の1020年(寛仁4)には法成寺を建立するが、1025年(万寿2)より子どもの不幸が相次ぐと、仏前で恨み節を漏らすことも多かったようだ。ここにも道長の多様な一面が現れている。
そして文化面での功績といえば、やはり紫式部への支援だ。彼女の代表作である『源氏物語』は、道長から執筆を依頼され、支援の下に起筆されたとする説がある。そうでなくとも、中宮彰子に出仕する彼女に紙などを提供し、活動を下支えしていた。道長の支援がなければ、平安の傑作は生まれなかっただろう。
確かに道長が政争に明け暮れたのは事実だ。しかしその性格は多面的で、仏教や文化への貢献も高い。単純な善悪では測れない人物だったといえよう。
『藤原道長の日常生活』倉本一宏・著(講談社現代新書)
『御堂関白記 藤原道長の日記』藤原道長・著/繁田信一・編(角川ソフィア文庫)
『紫式部と藤原道長』倉本一宏・著(講談社現代新書)