■わずか10歳の子を磔の刑に!
秀吉の悪行といえば、先に挙げた無謀な「朝鮮出兵」のほかにも、政治経済のアドバイザーでもあった茶道の開祖・千利休(せんのりきゅう)の処刑、後継者と目されていた実の甥・豊臣秀次(ひでつぐ)一族の虐殺など、天下統一後に集中している。
感情に流され、まともな判断もできない老いさらばえた晩年と描かれることが多いのは、こうした残虐行為のせいでもある。しかし、天下統一前の秀吉にも残酷な一面はあった。
1573年(天正元年)の近江国(滋賀県)の小谷城攻めにて、秀吉は浅井長政(あざいながまさ)の妻(当時の主君である織田信長の妹・お市の方)と娘たちは許している。だが、10歳の嫡男・万福丸は串刺し刑とした。
もっとも、これに関しては主君・信長の意向もあったが、秀吉の残虐性が発揮されるのはここからだ──。
■天下統一前の残虐行為の数々
たとえば、中国攻めの“総司令官”を任された秀吉は、1577年(天正5)の播磨国(兵庫県)の上月城攻めで、城内の女性や子どもを隣国の国境で串刺し・磔(はりつけ)にしたという。その数なんと200人以上!
さらに、同じ中国攻めの最中、1580年(天正8)の三木城攻め、1581年(天正9)の鳥取城攻めでは、「三木の干し殺し、鳥取の飢え殺し」と呼ばれる苛烈な兵糧攻めで、場内で“共喰い”が行なわれるような生き地獄を引き起こした。
これらは信長の命ではなく、あくまで総司令官である秀吉の意思で行なわれたのだから、秀吉の残虐性の証拠といっても過言ではないだろう。
また、信長が本能寺で死んだ後には、亡き主君の一族にまで手をかけている。
■戦国時代ゆえの残虐さ?
“元上司”でもある織田家筆頭家老・柴田勝家(しばたかついえ)との後継者争いだった、1583年(天正11)の賤ケ岳(しずがたけ)の戦いにおいて、秀吉を裏切り勝家側についた信長の三男・信孝の母親と娘達を全員処刑。信孝本人も、戦後に自害させている。
こうした行為から、秀吉の残虐性は若き日から不変だったという説もある。
ただし、戦国の串刺し刑は海外とは違い、絞首刑後の遺体を刺す晒し刑だった。信孝一門の処刑は信長の次男・信雄(のぶかつ)の意向が強かったという。また復讐防止に大名の子息を殺すことも、戦国時代では常識だ。戦国乱世を生きるなら、秀吉もお人好しではいられない。
はたして秀吉は人たらしの天下人か、残酷な虐殺人か。その「人間」としての素顔は、これからも明らかにされることはないだろう。
『図説 豊臣秀吉』柴裕之編(戎光祥出版)
『豊臣秀吉』小和田哲男著(中公新書)
『戦国武将、虚像と実像』呉座勇一著(角川新書)