■次第に異様な行動に走るアン

そんなある日の深夜。タケダさんが仕事を終えてベッドに入ろうとしたそのとき──部屋のドアがガンガンと叩かれた。
「タケダー! でてきてー! ねえ!! いるんでしょッ!!」
激しくドアを叩く鈍い音に交じり、叫び声と泣き声がコンドミニアム中に響きわたる。隣人が顔を出すほどの騒ぎになったが、それでも彼女はやめない。ドアスコープから覗くと、廊下にうずくまって座っている姿があった。タケダさんは耳を塞いで朝が来るのをじっと待ったという。
後日、タケダさんのもとにアンから1件のメッセージが届いた。
「あなたに捨てられたら、私、死んで呪うよ」
短い文章だったが、その一文には異様な執念が滲んでいた。その日を境に、タケダさんはあることに気づき始める。なぜかタイに関する不穏なニュースばかりが目に留まるようになったのだ。
──「女性が交際相手の男性を殺害」
──「痴情のもつれか? タイ人女性、自室で自殺」
そのニュースを目にしたタケダさんは恐ろしくなり、現在のコンドミニアムから少し離れたアパートに引っ越しを決めた。さらに、アンのLINEも電話もブロックしたという。
■街で遭遇したのはアンの亡霊?

「それでも時折、コンビニや駅のホームで、アンに似た後ろ姿を見かける気がするんだよ。それに背中に刺すような視線も……でも、ゾッとして振り返っても誰もいないんだ」
タケダさんが見かけたのは、本当に死んでしまったアンの亡霊だったのか──。それとも、罪悪感と恐怖からくる幻覚だったのか。
ただ、その後もバンコクの夜街の雑踏で、人ごみの中から恨みがましい目でジッと睨みつけてくるアンの姿をみかけ、アッと思った瞬間、姿が掻き消えていたこともあった。その姿は幻覚でも幽霊でもなく、はっきりした生身の人間のように見えたという。
タイには「メー・ナーク(ナン・ナーク)」という、愛する夫を死後も離さなかった女性の幽霊の伝説がある。愛情深く、一途であるがゆえに、境界を越えてしまうことがある。あるいはアンも……。
なお、タイでは恋愛関係に起因する殺人事件が、新聞やネットニュースで毎日のように報じられている。タケダさんが見たニュースは、偶然なものではないのかもしれない。
「タイ人女性は愛情深い。でも、だからこそ怖い時もあるんだよね……」
タケダさんは、そう語って笑った。その笑顔の奥に、まだどこか怯えたような影が残っていた。