宜嬪・成氏は1784年には二度目の出産をして、翁主(オンジュ/国王の側室が産んだ王女)の母となった。しかし、この王女はわずか2カ月足らずで夭逝した。
その直後の1784年7月に、宜嬪・成氏の長男が世子(セジャ/国王の正式な後継者)となった。名前は文孝(ムニョ)世子である。まだ満2歳にもなっていなかった。普通、世子は早くても5歳ごろに選ばれるので、2歳未満の世子決定は異例中の異例だった。
それほど、正祖はあせっていたのである。
しかし、文孝世子は生命力が乏しかった。1786年5月に夭逝してしまった。
宜嬪・成氏の悲しみはあまりに深かったが、彼女自身にも「人生の終わり」が迫ってきていた。
原因不明の衰弱によって病床についた宜嬪・成氏のために、正祖が自ら薬剤の調合を行なっている。彼は主治医に勝るほど薬剤に詳しかった。
そんな正祖の必死の願いにもかかわらず、宜嬪・成氏は1786年9月14日に亡くなった。そのとき、彼女は妊娠9カ月だった。
宜嬪・成氏と心を通い合わせていた孝懿王后は慟哭(どうこく)して大切な人の死を嘆いた。
『朝鮮王朝実録』の1786年9月14日の記述には、正祖の発言が載っている。
「病状が異様だ。けれど、結局はこうなってしまった」
この言葉は、正祖が放心状態であったことを窺わせる。
そして、彼は第一等の格式で葬儀を行なうことを配下に命令している。
宜嬪・成氏の享年は33歳であった。最期があまりに若すぎたが、出会ってから死ぬまで正祖に愛された人生だった。