親政をはじめた真興王のもっとも関心が高かったことは、領土の拡大。高句麗百済・新羅、そして伽耶が争っていたこの時代。当時の漢江流域は、中国と朝鮮半島を結ぶ重要な交通路だった。

 551年、高句麗が北方からの侵入と、国内の権力争いでごたついていると知った真興王は、同盟関係で、漢江流域を高句麗に奪われ苦労していた百済の聖王(『帝王の娘スベクヒャン』のチョ・ヒョンジェ)とともに高句麗征伐に乗り出す。この戦いに勝利し、まず漢江上流域を獲得した。

 2年後、今度は百済を攻めて漢江下流域の土地を奪い、さらには伽耶(いまの慶尚道のあたり)を征服して領土を拡大。自身の王権強化にも成功する。もちろん、この好戦的で血気盛んな若き王の成功の裏には、国に忠誠を誓う、誇り高き花郎たちの命がけの活躍があったはずだ。

 ところで、真興王は音楽に大変興味があったようだ。地方視察をしているとき、伽耶のウルク(『花郎』ではキム・ウォネが演じている)なる音楽の名手の噂を耳にした王は、ウルクを呼び、カヤグムを演奏させた。

 552年には新羅の3人の人物をウルクのもとに弟子入りさせる。彼は、それぞれの特性を見極め、ひとりにはカヤグム、ひとりは歌に、そしてもうひとりには舞踊を教えたようで、真興王で、修行の成果を披露させると王が喜び、褒めたと伝わっている。

 また、真興王は、仏教の保護にも力を注ぎ、新羅初の寺院を立てると戦闘で亡くなった兵士を弔った。自身も仏教に傾倒、出家し、剃髪して僧服を身に纏ったという記録もある。

 そうやって、領土を拡大し、仏教国とすることで王権を強化していった真興王だが、世継ぎと期待していた太子・銅輪(トンニュン)が572年に亡くなると、その悲しみからか、患い病に伏せるようになり、42歳でこの世を去った。三国統一の夢は、そのあとの世代が引き継ぐことになるのである。