■なぜか八坂神社ではほぼ語られない牛頭天王
ちなみに、ここで紹介した蘇民将来にまつわる物語の初出は、713(和銅6年)年に書かれた『備後国風土記』といわれている。 そのなかで牛頭天王は武塔神(むとうしん・むとうのかみ) という名で現れ、のちに素戔嗚尊と習合する。このあたりは武塔神の素性が不明なこともあり、牛頭天王とは違う神様だとか、途中で牛頭天王と同一視されたとか、詳細は明らかになっていない。
なんにせよ、中世の頃には牛頭天王と蘇民将来のエピソードへと置き換わり、さまざまなバリエーションの牛頭天王神話が生まれたのだ。
ところで、八坂神社のHPを見てみると、牛頭天王に関しては「八坂神社の主祭神・素戔嗚尊は、往古牛頭天王とも称し」とだけ記され、そのほかには一切紹介されていない。神話についても『備前国風土記』の話が採用されており、さらには虐殺エピソードも省かれている。
神聖な神社にとって血なまぐさい伝承は隠すべき暗部なのかもしれないが、なぜ、牛頭天王そのものの存在すら薄れてしまっているのだろうか──。
■ 疫病をもたらす神がいつしか防疫の神に
伝承からもわかるように、牛頭天王は本来、災厄をもたらす神だった。ではなぜ、そんな神様が八坂神社の祭神となったのか。そしてなぜ、存在を消されてしまったのだろうか。
連載第2回の記事 でご紹介したように、平安時代において、疫病は怨霊や外国からの神がもたらすものだと考えられていた。インド由来の牛頭天王もまた、疫病をもたらす疫神とみなされていたのだ。
しかし時代を経るにつれて性質が変化し、いつしか防疫の神様として信仰を集めることとなった。伝説的な陰陽師・安倍晴明が記したとされる陰陽道の秘伝書『簠簋内伝 (ほきないでん)』(注2)では、牛頭天王は自らが討ち取った古単将来の身体をバラバラにして、厄除けの呪具として食するよう説いている。
復讐のために殺戮を繰り広げ、あまつさえ敵を食べてしまうようなおっかない神様が起源なのだ。粽の転売がどれだけ罰当たりで恐ろしい行為か、おわかりになるだろう。
注2/ 実際には、中世に祇園社の祠官(※神官のこと)が「安倍晴明が書き残した」という体で編纂したものといわれている。
■神仏分離令により消された牛頭天王
さて、少なくとも中世には祇園社の祭神として祀られていた牛頭天王だが、明治維新を機に存在を消されてしまう。 その原因となったのが、明治政府による神仏分離政策だ。
1868(慶応4)年3月28日、神祇事務局より「神仏判然令」が出され、神社から仏教的な要素を排除するよう通達された。その中で祇園社は、排斥対象の代表格として名指しされる。 仏像の排除、本地仏、鰐口、梵鐘の取外しなどが命じられ、祇園精舎を連想させる祇園社の名は、八坂神社に改称させられた。祭神は素戔嗚尊になり、仏教由来の牛頭天王は「なかったもの」にされてしまったのだ。
防疫の神様をないがしろにしてしまったせいだろうか。明治期に入ると、数年おきにコレラが日本を襲うようになる。
さらに、牛頭天王が消されてからちょうど50年後の1918(大正7)年には、「スペイン風邪」が日本に上陸。猛威は3年間続き、40万人近い人々が亡くなった。科学的にはただの偶然・こじつけかもしれないが、神様の怒りだと考えることもできるだろう。
ちなみに1877(明治10)年と1879(明治12)年に大流行したコレラだが、不思議なことがひとつある。あいだの1878(明治11)年のみ、死者数275人と少ないのだ。もちろんコレラは猛威を奮っていたのだが、この年は牛頭天王排斥からちょうど10年目。もしかすると、天王による加護の残滓、もしくは警告だったのだろうか……。
鈴木 耕太郎「「中世神話」としての牛頭天王:牛頭天王信仰に関するテキストの研究」立命館大学,2017年
脇田晴子『中世京都と祇園祭 ―疫神と都市の生活―』吉川弘文館,2016年
北里柴三郎「日本におけるコレラ(1887年)」『北里大学一般教育紀要』 20 (0), p167-173, 2015年