■もっとも好かれ、嫌われた総理
1918(大正7)年に新潟県刈羽郡の農村部に生まれ、戦後の1972(昭和47)年から首相を務めあげた田中角栄。その功罪は、21世紀の今でも人々の関心をひきつけてやまない。それでも、角栄に関しては、次のような意見もある。
「田中角栄は、戦後日本でもっとも好かれ、もっとも嫌われた総理大臣だった」
日中国交正常化などの外交成果はもちろん、人々の興味を掻き立てたのが「日本列島改造論」だ。その目的は、東京と地方の格差や人口問題を解決すること。新幹線や高速道路をメインとした高度な交通網と情報通信網を整備し、全国的な工業の再配置をすることによって、人口と産業の地方分散を成し遂げようとした。
■支持率が戦後最高の“今太閤”
また、1972年の総裁選時に発表した新政権の政策目標「国民への提言―私の十大基本政策」では、土地価格の抑制や住宅拡充、週休二日制の定着、教育環境の改善、農工一体の地域開発などの政策実現を約束している。
こうして、貧しい農家に生まれた少年が政治の世界を駆けあがり、遂に日本のトップの座に就いたわけだが、日本の大衆の多くは新首相・田中角栄を諸手を挙げて歓迎した。
過疎化に苦しむ地方は角栄に夢を抱き、ついた異名が「庶民宰相」や「今太閤」。新幹線路線建設への資金投入も進み、困難を極めていた青函トンネル掘削工事も予算増額で加速することになる。
こうして、田中内閣の支持率は、吉田茂や池田勇人を押さえ戦後ナンバーワン(当時)となる驚異の約62%を叩きだし(注1)、角栄は一躍時の人となったのだった。
注1:朝日新聞による調査
だが、今太閤の天下は長くは続かなかった──。