■思わず漏れたリンカーンの本音
「奴隷解放宣言が政治的判断だった」という証拠に、条文では解放対象を南軍の支配地域に限定した。すでに北軍の占領地や、メリーランド州など北軍寄りの奴隷制度容認州は除外されていたのである。
さらに、リンカーン自身は奴隷解放に実は消極的だったともいわれる。実際、1862年8月に、新聞編集者で共和党の創設者でもあるホレス・グリーリーにあてた書簡のなかで、
「もしも私が奴隷を解放せずに連邦を救済できたら、私は是非ともそうする」
と記している。状況次第では奴隷制存続もやむなし、としており、奴隷解放はやむにやまれぬ政治的な状況によるものだったともいえる。
とはいえ、この宣言で奴隷制が否定され、のちの制度撤廃に繋がったのは歴史的事実。奴隷解放の面では、間違いなくリンカーンの善行といえるだろう。
■奴隷は解放したが先住民は弾圧
ただし、奴隷解放につながった南北戦争のさなか、リンカーンに「弾圧された人々」が存在する。それはアメリカ先住民だ。
1830年の強制移住法施行から、アメリカ政府は先住民族の分断と隔離を進め、反発する先住民との抗争が続いていた。リンカーンもこの政策を引き継ぎ、抑圧を続けていたのだ。
そしてリンカーンは、1862年に勃発した「ダコタ・スー族」の暴動を米陸軍に鎮圧させ(通称・ダコタ戦争)、降伏した38人の一斉絞首刑という米史上最悪の大量処刑を命じた。しかも、暴動に関わりのない女性や子どもたちも強制収容所に閉じ込め、数百人を死に追いやったのだ。
この事件は、後に「インディアン戦争」と呼ばれる数々の虐殺やアメリカ先住民の民族浄化への道を開くことになる。その意味でも、奴隷解放の父リンカーンの罪は重いものがある。
リンカーンは祖父が先住民に殺害され、弁護士時代の師ヘンリー・クレイの影響で反先住民思想に染まっていたとする説もある。ただ、ダコタ戦争の際に「もっと縛り首にしていれば票が集まったのに」という支援者の声に、「私は票のために絞首刑などしない」と応じるなど、政治家としての矜持(きょうじ)はあったようだ。
それでも、リンカーンが先住民弾圧のトップであったことに変わりなく、アメリカ先住民にとって、リンカーンはまさに「悪の親玉」だったのだろう。
『リンカーン 大統領選(上中下巻)』ドリズ・カーンズ・グッドウィン著/平岡緑訳(中公文庫)
『アメリカ史(世界各国史24)』紀平英作編(山川出版社)
『南北戦争の時代 19世紀 シリーズ アメリカ合衆国史③』貴堂嘉之著(岩波新書)
『リンカーン うつ病を糧に偉大さを鍛え上げた大統領』ジョシュア・ウルフ・シェンク著/越智道雄訳(明石書店)