■間一髪逃げ出したものの…
車はスピードを緩めることなく、暗闇の中を疾走している。このまま人気のない場所に連れて行かれるのではないか。数年前に耳にした、タイでタクシー運転手による強盗が相次いでいるというニュースを思い出し、Yさんは恐怖で身を縮めた。
スマートフォンを握りしめたまま、こっそりと車内にあるプレートの顔写真を撮影する。これが何かの証拠になるかもしれない。
車が減速したのは、急なカーブに差し掛かったときだった。Yさんはその瞬間を逃さず、意を決して車のドアを開け、外に飛び出した。
地面に転がり落ちた衝撃で、体中に激痛が走る。スーツもボロボロになったが、幸いなことに大きなケガはしていない。振り返るとタクシーは一瞬停車したが、そのままスピードを上げて闇の中へ消えていった──。
■そんな運転手は存在しない!?
恐怖で震える足を引きずりながら、Yさんは近くの明かりを頼りに進み、ようやく一軒の民家を見つけて助けを求めた。
翌日、怒りを抑えきれなかったYさんはタクシー会社にクレームを入れることにした。同僚に助けてもらいながら、運転手の名前と車両番号を伝える。
しかし、電話の向こうの担当者は怪訝(けげん)そうな声でこう答えた。
「そのような名前の運転手は、弊社にはおりません」
さらに、Yさんが乗った車両番号を伝えても、「そんなタクシーは登録されていない」と言うだけだった──。
その日の夜、タイ人の同僚にこの話をすると、彼はしばらく黙った後、こう語ったという──。
「あの辺りでは、夜道でタクシーに乗ると、あの世に連れていかれるって噂があるんだ。タクシー・ピー(お化けタクシー)と言われていて、事故か何かで死んだ運転手がまだ走らせてるんじゃないかってね」
はたして、あのタクシーは現実のものだったのだろうか? それとも……。
Yさんはそれ以降、タイでの移動は信頼できるドライバーを事前に手配するようにしているという。