■深夜、無人のベッドから声が!
(じゃあ、昨夜のあれは何だったんだ?)
そう思いながら、その夜は眠れずに過ごした。
部屋は静まり返り、欧米人の同室者はすでに寝息を立てていた。だが、ファンの音が昨夜よりも大きく、どこか甲高く響いている。その回転音の合間に、何かの囁きが紛れているように感じたという。
カタカタ…カサ……ガサ……
そこで「声」が聞こえた。
「……見たよね?」
──確かにそう聞こえた。オカダさんは跳ね起きて部屋を見渡した。だが誰もおらず、ドアも閉まっている。隣のベッドの欧米人は相変わらず眠っているようだ。
背筋が凍りつくような寒気と悪寒に襲われたオカダさんは、取るものもとりあえず貴重品だけ抱え夜明け前のカオサン通りへ飛び出してし、震えながら日が昇るのを待つしかなかった。
■GHに隠された「ある事件」

その翌日。ゲストハウスに戻る気にもなれず、オカダさんはカオサン近くのバーで飲んでいた。その時に、日本人男性とたまたま知り合い、仲良くなった。名はコバヤシといい、長年タイに住んでいるという。
昨夜の出来事を話すと、コバヤシは少し顔を強張らせた。
「まさか、泊まったのって◯◯ゲストハウスじゃないか?」
「なんでわかるんですか?」
「もう5〜6年くらい前かな。あのゲストハウスに長期滞在している日本人がいたんだよね。ロン毛だったから俺らは“貞男”って呼んでた。いつも黒いシャツ着てて、人と話すのが苦手そうな奴だった。でも、ある日突然いなくなったんだ」
「いなくなった…?」
「ああ。でも、妙な話があってさ。貞男にはタイ人の彼女がいたんだ。おそらくその辺のバービアか立ちんぼの女だと思うんだけれど、よく金のことで揉めていたらしい。で、貞男が消える少し前に、その女も突然いなくなったんだ……
「……」
「その後だよ。あの部屋に泊まった旅行者のあいだで、“夜中に誰かに覗かれていた”とか、“ベッドの上から声がした”なんて話が出始めたのは」
コバヤシが帰った後もオカダさんはその場を動けなかったという――。
■ベッドには何が隠されていたのか

多くの旅人が行き交うカオサン通りには不気味な噂も数々と……。
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「つまり、そのベッドには何かがあるということですか?」
バンコクのバーで、私はオカダさんに尋ねた。
「わからない。でも……僕が見た赤黒いシミ、あれはもしかしたら、何か隠されていた痕跡なのかもしれない。たとえば、彼女の持ち物とか。処分しきれず、ベッドの隙間に押し込んだままだったとか」
「もしかしたら、貞男はその彼女のことを―……」
「さぁね。あくまでこれは僕の妄想だけど」
オカダさんは少し笑いながら、けれどどこか遠くを見るような目でこう言った。
「そのゲストハウスは、あれからしばらくして潰れちゃったんだけど……。いまでも、カオサンの安宿に泊まると、たまに聞こえる気がするんだよ。あの、ゆっくり回る天井ファンのカラカラと回る音と、その音にまぎれて、たまに聞こえるんだ。あの声が。すぐ耳元で、囁くようにさ──」
「『見たよね? あそこ、見ちゃったよね』って……」
オカダさんは、もう笑っていなかった。