それは、孝懿王后に対して本当に申し訳なかったからである。
宜嬪・成氏は孝懿王后と同じ歳だ。しかも、王宮に入った時期も一緒だった。
さらに、孝懿王后は「聖女」と称されるほど性格が良く、宜嬪・成氏も心から慕っていた。それほどのお方がいるのに、宜嬪・成氏としてはイ・サンと一夜を共にすることは到底できなかった。
本来なら重い処分が下されるところだが、イ・サンは宜嬪・成氏の気持ちを尊重して、処分を不問に付した。
しかし、宜嬪・成氏を思い続ける気持ちはなお一層深くなり、イ・サンは「叶わぬ恋」に苦しめられることになった。
一方の宜嬪・成氏は、側室になれる身分を捨てて、恵慶宮の配下で女官として働いた。
1773年に宜嬪・成氏は、イ・サンの2人の妹、他の3人の宮女と一緒に合計6人で古典小説『郭張両門録』の筆写に取り組んでいる。
『郭張両門録』の作者は未詳で、郭家と張家の両家に起こった出来事を記した小説で、当時とても人気が高かった。この小説を熱心に筆写できるほどだから、宜嬪・成氏も相当に学識が高く当時の教養人であったことが窺える。
その3年後の1776年に、英祖(ヨンジョ)が世を去り、イ・サンが22代王・正祖(チョンジョ)となった。
彼が宜嬪・成氏を愛する気持ちは変わらず、1780年には再び国王として宜嬪・成氏に承恩を命じた。最初の承恩から14年が経っていた。
しかし、またもや宜嬪・成氏は承恩を拒んだ。理由は、前回と同様で、孝懿王后に申し訳ないという気持ちがあったからだ。
孝懿王后は正祖と結婚して18年が経っていたが、子供がいなかった。宜嬪・成氏はひたすら孝懿王后を気遣う気持ちが強く、今度も承恩を拒んだ。
彼女の心情がわかっていたので、正祖は今度も宜嬪・成氏が承恩を受けなかったことを不問に付した。
(後編に続く)