「宣嬪ソン氏は初めて承恩(王の夜伽を命じること)を下した時、中殿(孝義王后)がまだ貴重な子を生んで育てていないからと涙を流して断った。その気持ちを汲んで、それ以上苦しめなかった。15年後、もう1度後宮になってもらおうと再び命を下したが、そのときもまた彼女は拒絶した。そのため、彼女の召使を罰したところ、承恩を受け入れた」と、己の恋愛黒歴史を赤裸々に告白している。
そうやって、自分が記さなければ、誰がそれを覚えているか、だから長文になった。との言い訳すら書かれているのだから、どれほど大切に思っていたのかは、推して知るべしだろう。
ちなみに、『赤い袖先』の劇中でも描かれていたように、崩れた字体や文体をとかく嫌っていたことで知られるイ・サンだが、2009年に発表されたイ・サンから重臣のシム・ファンジ(沈煥之)に宛てた300通近い手紙のなかでは、自身の病状や、政治的かけひきのための口裏わせなど、さまざまな内容が記されていた。
興味深いのは、書に関しては堅物だと思われていたサンだが、臣下の悪口を市井の俗語で書いてみたり、漢文と諺文を混ぜ、いまの時代でいう「笑笑」的な言葉「呵呵(ハハ)」といった言葉も使っていたそうだ。まだまだ知らない人間イ・サンの姿が今後も発見されるのかもしれない。