■無法者?義賊?ネッド・ケリーは今も大人気

映画『トゥルー・ヒストリー・オブ・ザ・ケリー・ギャング』(2019)予告編

 

「As game as Ned Kelly(ケリーのように勇敢に)」

 

 現代のオーストラリアでも、そんな言葉が残るほど誰もが知る“反逆の英雄”ネッド・ケリーことエドワード・ケリーは、1854年12月(注2)ビクトリア植民地でアイルランド人の両親のもとに8人きょうだいの長男として生まれた。父レッド(本名ジョン)は元流刑囚、母方のクイン家も流刑囚の一族とされる。

注2/1855年生まれという説も多いが、最近の研究でこちらを示す証拠が多く見つかっている。

 

Ned Kelly
15歳の頃のネッド・ケリーとされる写真。スラっと背の高い、イケメンだっという。 画像:National Museum of Australia, Public domain, via Wikimedia Commons

 貧しい農民の家族で経歴のこともあり、地元警察に常に目を付けられていたケリー家。父レッドはネッドが12歳の時に家畜泥棒の容疑で6カ月収監されたのが原因で亡くなり、豪胆な母とともにネッドが一家を支えていくことになる。当然、家族を食わせるために犯罪に手を染めることになるのだ。

 

 14歳の時に、ブッシュレンジャーの"師匠”にあたるハリー・パワーと出会い、アウトローとしての生き残り方を学ぶ。またこの頃、街中で10シリングを奪ったとして初の逮捕。16歳の時には逮捕・収監され、刑務所で3年間の重労働を課せられた(なお釈放後に、ベアナックル・ボクシングのチャンピオンになるという珍エピソードも)。

 

■警官3人殺害で弟たちとお尋ね者に

追跡してきた警官4人を待ち伏せし……(当時の新聞画より)

画像:Samuel Calvert, Public domain, via Wikimedia Commons

 警察に一家そろって目を付けられ、時には馬泥棒の容疑で警官に血まみれになるまで殴られるなど、迫害されていたネッド・ケリーだが、本格的に無法者・ブッシュレンジャーの道に踏み出すきっかけは1878年、ネッド24歳の時のことだった。

 

 弟ダンと警官の揉め事をきっかけにブッシュに逃げ込んだネッドと弟の友人、スティーブ・ハートジョー・バーンの4人。当初は金の採掘や密造ウイスキー作りで稼いでいたが、追跡してきた警官3人を殺害。遂に2000ポンドの賞金首となってしまった(注3)

注3/最終的にはネッド・ケリーひとりで1000ポンド、ケリー・ギャング全体で8000ポンドにまで懸賞金は跳ね上がった。

 

 こうして仲間3人と「ケリー・ギャング」を結成したネッド。本格的にブッシュレンジャーとして暴れまわることになる。1878年12月にはオーストラリア国立銀行を襲撃し、2260ポンド(約1億8000万円、注4相当の現金と金塊を強奪。翌1879年2月にはニューサウスウェールズ(NSW)銀行2141ポンド(約1億7000万円)の現金と宝石を強奪した。

注4/各種資料をもとにヴィクトリア期イギリスの1ポンドが現在の日本円で6~8万円と換算して計算。

 

 なお オーストラリア国立銀行襲撃の際は、宿屋に町の住民を集めてビールをおごり、債務証書を持ち出して町のメインストリートで焚き火に投じた。また、NSW銀行強盗の時には、

 

「クソったれの銀行屋どもは、貧乏人の生き血をしぼり取ってやがる!」

(the bloody Banks are craushing the life's blood of the poor)

 

 と吐き捨てたという。こうしたケリーたちの振る舞いは貧困層の間で評判となり、食料や隠れ家など、支援を受けることにつながった。また、他のブッシュレンジャー同様に強盗を繰り返したが、貧しい人や女性には手を出さず、無闇に人を殺さなかったところも「義賊」というイメージを強くしたという。

 

■ネッド・ケリー最期の言葉とは?

 嵐のように暴れまわったケリー・ギャングだが、最期の時はあっけなく訪れた。
 

 次第に狭まる警察の包囲網に対し、ネッド・ケリーたちは一発逆転のトンデモナイ計画を立てた。1880年6月27日、ビクトリア州北東の街グレンローワンに警察の武装列車をおびき寄せ、街の手前で脱線させ警官は皆殺し。グレンローワンの警察署や裁判所は焼き討ち、刑務所から囚人を解放し(もちろんついでに銀行強盗もw)、一説には「ノーザン・ビクトリア共和国」独立を宣言するというものだった(注5)

注5/参考資料「オーストラリア辞典」Ned Kelly and the Kelly Outbreak参照

Ned Kelly

最後の戦いでネッド・ケリーは自ら作った鋼鉄の甲冑に身を包み着こみ、銃を撃ちまくったという。

画像:映画「The Story of Ned Kelly」より Public domain, via Wikimedia Commons

 だが、直前で脱走した人質が警察に通報し計画は失敗。27日未明からネッドたちが立てこもるホテルを警官隊が包囲。壮絶な銃撃戦の末、バーンは射殺され、弟ダンとハートは焼死。手製の甲冑に身を包んだネッドは大暴れし、森に脱出するものの、ショットガンで脚を撃たれ出血多量のところを逮捕された。

Ned Kelly
裁判中のネッド・ケリー。当時の新聞「The Illustrated Australian News」より 画像:Published by David Syme and Co., Melbourne, Public domain, via Wikimedia Commons

 同年10月、裁判が行なわれ6万人の助命嘆願が集まったものの、絞首刑が宣告された。ケリー・ギャングの共犯としてすでに収監されていた母エレンは、こんな言葉を贈ったという。

 

「ケリーの男らしく死にな、息子よ(Mind you die like a Kelly, son)」

 

  そして運命の日、1880年11月11日、自らの足で絞首台へと上っていったネッド・ケリーは、

 

「人生なんてこんなもんさ。ああ、こうなるってわかっていたよ!」

(Such is life. Ah, well,……I suppose it has come to this)

 

 というつぶやきを残し、淡々と刑場の露となった。

Ned Kelly
処刑前日のネッド・ケリーの写真。従容とした死にざまだったという。 画像:Australian News and Information Bureau, Canberra, Public domain, via Wikimedia Commons

 なお、ケリーの処刑後、その頭蓋骨が展示物として一般公開されたが、1978年に盗難されて以降、行方不明になってしまった。それほどケリーの人気は絶大で、その人生は小説や、オーストラリアを代表する映画俳優ヒース・レジャー(不慮の事故で急逝/関連記事)がネッドを演じた映画など、何度も作品化され、今も彼の伝説を語り継いでいる。

 

【参考資料】
Ned Kelly(Wikipedia)
Ned Kelly|Biography & Facts(Britanica)
Bushranger(Wikipedia)
オーストラリア辞典「Ned Kelly and the Kelly Outbreak」(大阪大学大学院 西洋史研究室)