「汚職屋」と呼ばれた金権老中

 

 自民党の裏金事件が取りざたされる昨今、金権政治は批判の種となりがちだが、江戸時代にも汚職金権で悪名高き政治家がいる。江戸後期の老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)だ。

 

 意次は1719(享保4)年に知行600石(中の上ぐらい)の旗本の長男として江戸に誕生。1745(延享2)年に9代将軍家重の側近(御側御用取次)となり、能力を買われ、わずか10年ほどで1万石の大名に出世した。

 

徳川家重

田沼意次を登用した9代将軍徳川家重。

画像:長谷寺蔵,Public domain, via Wikimedia Commons

 

 10代将軍家治の就任後も重用が続き、さらに10年ほどで、なんと5万7000石の押しも押されぬ大名に。側用人、老中格(老中並)と出世の階段を駆け上がり、遂に1772(安永元)年、幕臣のトップ、いまで言えば総理大臣にあたる老中となったのだ。

 

■教科書にも「政治腐敗」の象徴と

 

 

 こうして意次が政治の実権を握ると、息子の意知(おきとも)とともに金権政治で幕政を左右した。こうして意次らが政治の中枢を握った時代は、「田沼時代(1758~1786 ※諸説あり)とも呼ばれる。

 

 意次の政策の根本は、農業主体から商業主義への転換だ。しかし、それによって江戸は拝金主義と利権意識で退廃。役人のあいだでは賄賂が横行し、意次も率先して汚職に手を染めた。

 

──と、ここまでが戦前までの田沼時代についての評判だ。

 

 明治維新から戦前にかけて、意次の賄賂にまみれた金権政治を指摘する書籍は後を絶たなかった。明治から昭和初期の国史学者、三上参次の『江戸時代史・下』では、裁判結果まで賄賂で決められたとしている。

 

 国定教科書にも「不正の時代」と紹介され、意次は政治腐敗や汚職の象徴としてのイメージが長く定着していたのだ。

 

■田沼以前に財政破綻していた?

 

田沼意次

おそらく若き日の田沼意次を描いた肖像画。

画像:牧之原市史料館所蔵,Public domain, via Wikimedia

 ただ、意次が商業政策にシフトしたのは、農業主体の政策が限界に近づいたからだ。幕府と武士の収入源は年貢米だったが、18世紀初頭には米余りで米の価格が下落。8代将軍吉宗による享保の改革で一時的に財政は持ち直したものの、年貢の増加で一揆が多発する。米価も上昇が鈍く、幕府の財政は再び悪化した。

 

 そうしたなか、意次が目を付けたのが商業だった。江戸中期の商業は大坂・京都の上方を中心に発展を続け、物価の上昇で商人は大儲けをしていた。

 

 それまで幕府は商業抑制を基本方針としていたが、意次は逆に商業を利用して税収を上げようとしたのである。