■エスカレートする道鏡の出世

「道鏡を帝位に」という宣託が下ったとされた宇佐神宮。しかし、その後……。
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上皇に気に入られたから野望を抱いたのか、それとも皇位簒奪(さんだつ)のために上皇へ近づいたのか。道鏡の本意は不明だ。
ただ、当時最大の実力者だった太政大臣・藤原仲麻呂の乱を鎮圧し、仲麻呂に加担したと淳仁天皇も追放すると、孝謙上皇は称徳天皇として返り咲き、ますます道鏡に対する抜擢をエスカレートさせる。
僧侶である道鏡に政治権力まで与え、仲麻呂の死で空席となった太政大臣の座に、「太政大臣禅師」という“道鏡専用”の役職まで新設、ついには天皇に準ずる「法王」の称号まで与えた。
法王という称号には、具体的な権限はなかったともされるが、道鏡の出世に続いて弟の弓削浄人が大納言になったのをはじめ、一族のものが高位高官に出世。宮中で道鏡一族が一大勢力となったのは事実だ。
そして、ついに769(神護景雲3)年、九州・大宰府の長官だった弓削浄人から、
「宇佐八幡宮から道鏡を天皇にせよとの神託が下った」
との報告が届く。だが、このときは、宇佐八幡宮に送られた和気清麻呂により神託はニセモノだったことが判明。これで道鏡の即位は阻まれたが、天皇は弓削一族を罰するどころか、逆に清麻呂を流罪にしている(宇佐八幡宮神託事件)。

■皇位簒奪の意志はなかった?

孝謙上皇(称徳天皇)が道鏡を側近に置いたのは、本当に私情からだったのか?
(画像はイメージ) 画像:Public Domain/Britsh Museum
このような経緯から、道鏡は天皇の恋心に付け入り皇位簒奪を企てたとされる。だが、道鏡に野望があったと記す資料は大半が後世に書かれた書物であり、奈良時代の基本資料『続日本紀』に皇位を狙ったとする記録はない。
『続日本紀』にあるのは、宇佐八幡宮の神託を聞いたとき道鏡がよろんだという記述と、天皇の死後に皇位簒奪未遂者として追放されたとする一文だけだ(なお同書には、弓削浄人をはじめ一族も土佐国へ流罪にされたとある)。
しかし『続日本紀』を含む当時の史書は、天皇や朝廷をなるべく悪としないよう書くのが普通なので、道鏡の行ないが誇張されている可能性が高い。そのため、道鏡自身が出世を望んだわけではなく、孝謙天皇の行き過ぎた贔屓や、それに増長した一族の暴走だった可能性も高い。
ましてや、当時としては超高齢な70歳目前の道鏡が天皇になる野望など抱くのか、はなはだ疑問だ。
■むしろ道鏡は翻弄された側?

奈良・西大寺には道鏡の名誉回復を願い「道鏡禅師座像」が奉納されている。
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そもそも、称徳天皇が道鏡を重用したのは、東大寺の大仏を建立したり、全国に国分寺を建てたりした父の聖武天皇と同じく、仏教を重んじていたからだと考えられる。つまり、仏教興隆を進める人材として、道鏡に絶大な信頼をおいたというわけだ。
770(宝亀元)年に称徳天皇が崩御すると、天皇の御霊を弔っていた道鏡は朝廷に告発されて下野薬師寺に追放となる。とはいえ、下野薬師寺の別当として赴任しているので、配流ではなく左遷だ。
道鏡と天皇の姦通を示す記述も、平安時代以降の説話集(注1)や江戸時代以降の文献が多く正式な史料はない。もし、邪な関係があったのなら僧籍を剥奪されているはずで、もちろん「ひざ三つ」説を裏付ける史料も存在しない。
注1/民話や物語を集めた書物。『今昔物語集』や『日本霊異記』が有名
ただ称徳天皇が道鏡を厚遇したのは間違いない。したがって、道鏡が天皇を翻弄したのではなく、わがままな女主人が道鏡を翻弄させたといえなくないのだ。
『女帝と道鏡 天平末葉の政治と文化』北山茂夫 (中公新書)
『道鏡』 (人物叢書)横田健一(吉川弘文館)