私が姉と兄と3人で訪れたのは2012年8月。明確な目的があった。直系の先祖の位牌に祈りを捧げるためであった。

 その先祖とは神徳(シンドク)王后だ。私たちは信川康氏(シンチョンカンシ)の27代目だが、8代目が神徳王后であった。

 彼女は、1392年に朝鮮王朝を建国して初代王になった太祖(テジョ/本名は李成桂〔イ・ソンゲ〕)の第二夫人だ。太祖の最初の妻は神懿(シンイ)王后。「糟糠の妻」と呼べる存在で、高麗王朝の武将であった太祖の若き頃を支え続けた。とはいえ、高麗王朝の時代は一夫多妻制であり、高い官職についた人は第二夫人をもつ例が多かった。太祖の場合はそれが神徳王后だった。

 1391年、神懿王后は 54歳で亡くなった。その翌年に朝鮮王朝は建国されているので、追尊を除いて厳密に最初の王妃になったのは神徳王后のほうだった。そして、世子(セジャ/国王の正式な後継者)に選ばれたのは神徳王后が産んだ10歳の芳碩(バンソク/太祖の八男)である。
この決定に激怒したのが、神懿王后が産んだ芳遠(バンウォン/太祖の五男)だ。彼は大変な実力者であったが、世子になれなかったことで、継母の神徳王后を憎んだ。

 結局、神徳王后が1396年に亡くなったあと、芳遠は1398年にクーデターを起こし、異母弟の芳碩を殺して完全に政権を掌握した。そして、兄の芳果を二代王に祭り上げたうえで、1400年にようやく3代王・太宗(テジョン)として即位した。彼は怨んでいた神徳王后の墓を徹底的に破壊し、彼女の王妃としての身分も貶めた。

 こうして神徳王后の墓はみすぼらしく放置されたままだった。ようやく彼女の名誉が回復されたのは、18代王・顕宗(ヒョンジョン/在位は1659~1674年)の時代だった。

 今、宗廟の正殿の第一室には、太祖と神懿王后と一緒に神徳王后の位牌が祀られている。再び王妃にふさわしい格式で神徳王后が遇されているのだ。

 その神徳王后の位牌は一般的に公開されていないが、祀られている場所に向かって姉と兄が神妙に手を合わせている。歴史の重みを痛感するのは、まさにそんな瞬間であろう。

歴代王と王妃の位牌を祀った各室の配置が表示されている