韓国のなかにあった日本は、日本の敗戦後、日本軍や日本人が引き揚げたのを境にまるでその時代がなかったかのように消されていった。神社は壊され、日本を連想させるさまざな建物が消えていった。

 しかし韓国のなかには、その嵐をかいくぐったかのような日本人町がいくつか残っている。九龍浦(クリョンポ)はその代表格である。いまや日本のテーマパークにようになって、若い韓国の人々が訪れる。九龍浦日本人家屋通りは、ドラマ『椿の花咲く頃』のロケ地としても使われた。

慶尚北道浦項市、漁港で知られる九龍浦の日本人町を訪ねる

 九龍浦はソウルというより、釜山のほうが近い。基点は浦項(ポハン)になる。ソウルからの場合も列車で浦項に向かう。そこから九龍浦まではそう遠くない。路線バスの世界だ。

 九龍浦はいまも昔も知られた漁港である。多くの日本人がここに住んだのも、ここで水揚げされる魚介類という経済基盤があったからだ。

「九龍浦の海は魚半分、水半分」

 こんな言葉が残っている。それほどの漁獲量を誇っていたのだ。

 1876年に日朝通商章程が結ばれ、日本の漁船は本格的に九龍浦沖で操業するようになった。そのつながりは、やがて移住へとつづいていく。

 本格的に移住がはじまったのは1908年。移り住んだのは、瀬戸内の魚が減るなかで、九龍浦の漁獲高に期待をかける香川県と岡山県から移り住む人が多かった。

 九龍浦の噂は瀬戸内で広まっていったのだろう。最も多いときで280棟の日本人家屋があり、1932年には1200人の日本人が暮らしていた。

 浦項から路線バスに乗った。港に面した商店街で降りた。するとすぐ近くに、日本風の瓦を葺いた門が見えた。大きくはないが寺や神社の山門に似ている。そこまで行ってみると、はたしてその先に石段が見えた。この構造はどうみ見ても神社だった。日本でも、港を見おろす丘の上に建つ神社は多い。

 石段をのぼってみた。高台に出たが、そこにはなにもなかった。韓国風の小さな廟が建てられているだけだった。

 すると同行していたカメラマンから声をかけられた。地面を指差しながら、

「これ、鳥居じゃないですか」

 といった。たしかにそれは鳥居だった。しかし土のなかに埋められている。

 ひとりの日本人もいなくなった九龍浦にやってきたアメリカ軍は、日本人の心の支えになった神社を壊していった。ここに建っていた九龍浦神社も例外ではなかった。立派な鳥居は壊され、土のなかに埋められた。しかしその後の雨などで、土が少しずつ流れ、鳥居の一部が露出してしまったのだ。

 その近くには忠魂塔の台座だけが残されていた。脇にはそこに水を溜めて手を洗ったのだろう石づくりの台もあった。そこには、「林田」という名前や「奉納」という日本語が読みとれた。

土のなかに埋められた鳥居の一部。その大きさは想像できる