この街で出会った日本人向けボランティアガイドの女性に訊いてみた。

「そんなことはありませんよ。橋本家の家以外は、どの家にも韓国人が住んでいます。橋本家の家も2010年まで人が住んでいました。大きな家ですから、社員寮のように使われていたようです」

 僕は韓国にあった日本はことごとく壊されたと思っていた。この街にある九龍浦神社も鳥居が壊され、石段の石柱に刻まれたいた日本名は裏返しにされていた。しかし少なくとも、九龍浦の庶民の家は使われていた。ボランティアの女性はこうもいった。

「日本人が港を整備してくれたから、戦後、私たちはここで生活できたんです」

 そこにはガイドの日本人へのリップサービスもあるとは思うが、過去を辿ると、この街の発展には日本人が深くかかわっていた。資料を読むと、九龍浦一帯のインフラを整えていったのは、橋本善吉と十河彌三郎という日本人だった。博物館はその橋本氏の家だったのだ。

 わかりにくい話だった。九龍浦の人たちは、戦前にここに暮らした日本人をどうとらえているのだろうか。報道される日韓関係の話とどうも違う。

 九龍浦の街並みを眺めた後、僕は一軒の食堂に入った。名物のクメギを食べたかったのだ。クメギというは、サンマを寒風のなかで半干しにした料理だ。ソウルで食べ、気に入ってしまった。その本場が九龍浦だと聞いていたのだ。

 ひんやりとしたクメギにネギやコチュジャンを添えて口に運ぶ。戦前、この街では韓国人も日本人も、同じようにこのクメギを食べていた気がした。

港ではサンマがこうして干されていた。これがクメギになる