室町時代から江戸時代にかけ、日本にやってきた外交使節団、朝鮮通信使。彼らが歩いた道を辿り、韓国の鳥嶺古道を歩いた。そして日本の朝鮮人街道へ。その道を琵琶湖の東側にある野洲駅から歩きはじめた。

 旧中山道の分岐から、祇王井川に沿った道を進んだのだが、道は野洲駅の車両区でこと切れてしまった。祇王井川は暗渠のようになって車両区の下にもぐりこんでしまった。

■朝鮮通信使を辿る旅、日本に残る古道を探しながら歩いてみる

 朝鮮人街道はどこを通っているのだろうか。Google マップをみてもはっきりしない。

 先に行ってみるしかなかった。車両区に沿った道を10分ほど歩いた。すると、車両区をくぐる地下道のような道が目に入った。これを進むしかないだろう。

 車両区を越えると風景が一変した。家並が急に古くなった。どの道が朝鮮人街道? 道をひとつ、ひとつ眺めながら進む。3本目の道に立った。ピンときた。道が微妙に曲がっている……。

 以前、松尾芭蕉が『おくのほそ道』で歩いた道を歩いたことがあった。どこも微妙に曲がっていた。車がない時代につくられた道である。直線にする必要はなかった。いかに道を平坦にするか。それを優先した結果か、道がわずかに曲がっているのだ。

 これだと確信した。そこを進むと、祇王井川が見えてきた。

朝鮮人街道。微妙に曲がっている。その感覚、この写真でわかるだろうか

 道に沿って時代を感じさせる木造家屋がつづく。2階建ての立派な家が多い。

 江戸時代、十数年に1度やってくる朝鮮通信使の一行は好奇の的だった。徹底した鎖国が行き渡っていた。長崎の出島に行けば、外国人を目にすることはできただろうが、庶民には無理な話だった。周りには日本人しかいないのだ。そこに朝鮮風の服装をして知らない言葉を話す一団が通っていく。幕府は「2階や橋の上から見物はしない」というお触れを出しているが、2階の障子をわずかに開けて、眼下を通る一行に目を輝かせていた気がする。

 朝鮮通信使を描いた絵は数多く残されている。いつもは日本の風景や日本人の世界を描いていた絵描きにとっても、朝鮮通信使は新鮮だったはずだ。