そんな想像は朝鮮人街道歩きを色づかせてくれるが、しだいに疲れがでてきた。道は曲がってはいるが、アスファルトで舗装された道である。野洲駅から2時間近くも歩いている。飽きも出てくる。
途中から人家も消え、水田の間にのびる道になった。道に沿って桜の木がつづく。春にはみごとな道になるのかもしれないが、その時期にはまだ2ヵ月ほどあった。
ひとつの集落を越え、日野川に架かる仁保橋を渡った。欄干には朝鮮通信使の行列を描いた絵巻の複製が掲げてあった。
記録によると、朝鮮通信使の来日に合わせて橋がつけ替えられている。日野川の橋は通常、簡単な木橋だったようだが、朝鮮通信使が通るときは土橋にしたという。
橋をつけ替える……。それは日程の問題もあった気がする。朝鮮人街道は野洲から彦根までの41・2キロの道のりだった。一行はそこを1日で歩いている。ちょうど中間に近江八幡があり、そこにあった本願寺八幡別院で昼食をとっている。
江戸時代、成人の男性は1日10里、約40キロを目安にしていた。仮に8時間で朝鮮人街道を歩ききるとすると、時速5キロということになる。現代人の歩く早さは時速4キロといわれるから、かなり速い。
川を船で渡ったり、狭い橋だったりすると時間がかかってしまう。立派な橋につけ替えたのは、1日40キロというペースを守るためだったような気がする。
朝鮮の人々も、基本は徒歩だった。たぶん当時の日本人と朝鮮人の歩く速さは同じぐらいだったのだろう。
Googleマップで見てみる。日野川は野洲と近江八幡の中間にも至っていない。その距離を歩くのに、僕は2時間かかっていた。このペースでいくと、近江八幡まで野洲から5時間ぐらいかかってしまう。
ペースをあげなくては……。しかし不運なことに雨が降りはじめてしまった。仁保橋をすぎる十王町に入った。そこをすぎると車の往来が激しい幅の広い道になってしまった。その歩道を雨に打たれながらとぼとぼ歩く。
結局、僕は近江八幡駅までしか歩くことができなかった。そこで諦めた。雨のせいにしたかったが、ここを歩いた朝鮮人の脚力に完敗した気分だった。古道歩きはなかなかハードである。