現代の天才シェフとして名声をほしいままにしていたヨン・ジヨン(イム・ユナ少女時代)は、朝鮮王朝時代にタイムスリップしてしまい、国王イ・ホン(イ・チェミン)に料理の腕前を絶賛された。こうして展開されるNetflix人気作『暴君のシェフ』で、イ・ホンは破天荒な国王として描かれているのだが……。

■『暴君のシェフ』の国王のモデル、燕山君は実際にどんな人物だったのか

 国王イ・ホンは暴君として悪名が高かった第10代王・燕山君(ヨンサングン)を彷彿させる。そこで、史実の燕山君について解説していこう。

 燕山君は1476年に生まれている。父は第9代王の成宗(ソンジョン)で、母は成宗の二番目の正室だった尹氏(ユンシ)であった。燕山君が3歳の時、尹氏は不祥事が重なって廃妃(ペビ)となってしまい、成宗は三番目の正室として貞顕(チョンヒョン)王后を迎えた。それによって燕山君は継母に育てられることになった。

 尹氏は1482年に死罪となってしまったが、それは成宗の母であった仁粋(インス)大妃が強引に推し進めた処罰であった。そうした生母の死の真相を知らないまま燕山君は育った。なぜなら、成宗が尹氏の死のことを絶対に口外してはならない、と厳命していたからである。

 結局、仁粋大妃は自分が死罪にした息子である燕山君のことを疎ましく思っていた。つまり、燕山君は大妃から嫌われていた王子だったのだ。また、継母となった貞顕王后も愛情を持って育てることができなかった。それゆえ、燕山君は寂しい幼年時代を過ごしていた。その孤独感は後の性格形成に多大な影響を及ぼした。

 1483年、燕山君を世子にするかどうかの重要な論議が行われた。仁粋大妃は燕山君が世子になることに反対していた。死罪になった廃妃の息子を後の国王にするのはとんでもない、というわけだ。その意見に賛同する人も多かった。

 しかし、この時点で貞顕王后にはまだ子供がいなかった。そうなると、世子になれる唯一の候補は燕山君しかいない。成宗は熟慮した末に燕山君を世子に冊封した。

 そう決めたからには、成宗は燕山君に帝王学を授ける意欲が満々で、勉学の必要性を説いた。しかし、燕山君は学問に集中できなかった。どんなに優秀な師匠から教えを受けても、すぐに勉学を投げ出してしまう。彼は学問意識が低い子供だった。そのことに関して成宗は非常に危機感を持った。彼はしきりに燕山君を叱責するのだが、その度に世子は逃げ回っていた。