物価の上昇は世界的な傾向だ。各国の政府はインフレを抑える政策に走っている。物価高は観光客の足も引っ張る。ニューヨークやパリの物価高は日本にも報じられ、ランチに1万円以上がかかってしまったという話に、多くの日本人が旅を諦めた。
そんな流れのなか、韓国は値あがり感があまりなかった。日本円とウォンの換算レートは、2024年頃から1ウォンが0.1円~0.11円あたりを推移している。韓国の物価上昇も抑えられていた。コロナ禍が明け、ホテル代は倍近くになったが、それ以外の物価はそれほどあがっていなかった。日本周辺では台湾やタイの物価がぐんとあがったことから、韓国に向かう日本人が多くなった。
■物価が上がった韓国、ムハンリピル=食べ放題の店が人気に
その雲行きが怪しくなってきたのは昨年の夏ぐらいからだ。観光客の間からも、「ソウルよお前もかって感、ちょっとありますね」といった声が聞こえるようになる。ウォンの対円レートに変化はないわけだから、純粋に韓国の物価があがりはじめたわけだ。
観光客ですらそう感じるほどだから、ソウルの人たちはもっと切実な値あがり感を抱えていた。
そこで次々にできたのが、「韓食ビュッフェ」と呼ばれるバイキング形式の食べ放題店だった。それまではホテルのランチやティータイムに多かったが、庶民店に広がっていく。料金は1万ウォン前後(約1050円)で食べ放題という店が多かった。主にサラリーマンの昼食向け店だったが、それが思わぬ展開を見せる。シニア層やリタイア組が席を埋めるようになるのだ。
韓国で、食べ放題は「ムハンリピル」という。「ムハン」は韓国語で「無限」、「リピル」は英語の「refill」由来で「おかわり」の意味だ。
この食べ放題は、さまざまな飲食店に波及し、食べ放題焼き肉店が登場する。そこを埋めるのはソウルの人たちかと思っていだが、大挙してやってくるのは中国人観光客だった。中国人はビザなしで韓国にやってこれるようになったことも一因だったが。
そんな一軒に韓国人の知人と入った。人気はひとり2万ウォン(約2100円)ほどのコースだという。テーブルを片づけるまで待合室で……といわれ、エレベーターに乗った。待合室は最上階にあるという。
店の規模はそれほど大きくないと思っていた。ワンフロアーのテーブル数は20ほどだ。しかしエレベータに乗り、それが間違いだと知らされた。エレベーターは業務用も兼ねていて、スタッフも利用するためか、各階に停まった。ドアが開いたときに目にしたのは、どのフロアーも客で埋まる店内風景だったのだ。
1階から5階まで、すべて同じ店だった。かなりの席数になる。待合室は6階だった。がらんとしたスペースで、無造作にソファーが置かれていた。
「ちらっと見ただけだけど、どの階も埋めているのは中国人観光客みたいですね」
知人が戸惑ったようにいった。
「食べ放題ってソウルの人たち向けにスタートしたって聞いたけど、いつの間にか、中国人ってことですか?」
「そうみたいですね」
待合室には2組の先客がいた。どちらも中国人だった。
30分ほど待っただろうか。スタッフが呼びにきてくれた。1階のテーブルが用意されていた。
肉類は開放型冷蔵庫に並んでいる。豚肉と牛肉が中心。日本の焼肉に比べると切り方が厚い。中央にサラダバーもある。どれもとり放題だ。いくつかをテーブルに並べ、焼きはじめる。ビールは料金に含まれていないため、テーブルでの注文になった。
食べ放題という意識があるせいか、つい、急いで食べてしまう。次々に肉を焼いていく。しかし知人の顔つきはいまひとつ晴れなかった。なにか悩んでいるようでもある。
「どう、思いますか? この肉。大人数でわいわい食べればこれでいいのかもしれない。若者のグループなら、満腹になるしね。でも、悩んじゃう。脂かな。脂に甘味がないんです。どこかパサついた感じもする。少人数でじっくり食べると粗が出てしまうというか。料金を考えれば、もちろん及第点なんでしょうけど」
知人は首を傾げながらそういうのだった。僕は日本で焼肉を食べることが少ないから、比較が難しい。日本とは肉の厚みが違うし、たれの味も韓国だ。満足してしまっていたが、知人にそういわれると、たしかに少しパサついた感じもする。韓国人は日本人に比べると肉食の頻度は高いから、やはり味にうるさい。その舌は、即座にOKは出せない……。知人がそういっているようにも感じた。
以前、『優雅な一族』という韓国ドラマを観た。財閥一族の秘密をヒロインや弁護士があばいていくストーリーだった。イム・スヒャンやイ・ジャンウが出演している。そのなかでソウルを離れる前に焼肉というシーンがあった。「韓国人は国を離れるとき、焼肉なんだ」と思ったものだった。韓国人にとって焼肉はそういう存在……。味にうるさくなるのは当然だった。
なんとなく中途半端な思いを抱いて店を出た。向かいに昔ながらの焼肉店があった。知人はそのメニューを眺めながら、かたまっている。
「やっぱ、こっちのような気はするな」
しかし、そこに並ぶメニューは3万ウォン以上の値段がついていた。ソウルの人たちは財布の厚さを考えながら、難しい選択を迫られている。