●贅沢気質で借金の山も、薄給をやり繰りして一気に返済!
その後も「無駄遣い体質」は改まらなかったようで、京都に着いたのちも、「遊んでばかりいてもつまらないから旅行でもしようか」と、父・市郎右衛門が聞いたらタコ殴りされそうな理由で伊勢神宮を参拝して、ついでに奈良・大阪の名所旧跡を巡る二人。一応、
「尊王攘夷の志士が伊勢神宮をお参りするのは義務! 何なら国民の義務です!!」
と主張しているが、まぁ、観光旅行というところ。
さらに、京都で滞在していたのが「茶久」という高級旅館。あとで「1泊3食を昼抜きの2食でいいからまけて」と交渉して1泊400文にしたというが、それでも一般的な旅籠代の倍近く。現代のイメージでいったら、1泊2~3万円クラスのシティホテルに連泊している感じだ。
値引き交渉してでも高級旅館に泊まり続けようという坊ちゃん体質の金銭感覚。「いや、そこは安旅籠に移れよ……」とツッコミが入って当然だが、渋沢自身も『雨夜譚』の中で「最初から下宿屋にしておけば」と反省しきりだった。
●この借金&返済生活が渋沢の金銭感覚を磨いた!?
さて、そんな生活をしていれば、なけなしの100両などあっという間に消えてしまう(実際、京都に着いて2か月目で底を着いたとのこと)。京都の友人知人にあっちで5両、こっちで3両など借金を重ね、正式に一橋家に仕官した時には、二人合わせて25両(約50万円)に借金が膨らんでいた。
しかし、ここからが渋沢の偉いところ。一橋家に仕えた「初任給」が、四石二人扶持(だいたい14~15両とのことなので約30万円。但し年払い分)と京都滞在者への月手当が四両一分(約8万5000円)。ざっくり計算すると月給11万円。この中から二人それぞれが月1両ずつを返済に充て(『実験論語処世談』より)、4~5カ月で完済したという。若干、計算が合わないが、薩摩藩へのスパイ活動の手当などを貯め込みつつ、生活を切り詰め必死に返済したのだろう。
「若い頃の苦労は買ってでもしろ」とはまったく思わないが、この頃のカネの苦労がのちの渋沢の優れた金銭感覚や庶民感覚を磨いたのかもしれない。実際、この後、渋沢は一橋家の財務面で目覚ましい実績を上げ、出世の階段をばく進していくのだが、それはまた次回のお話で……。
参考資料
デジタル版『渋沢栄一伝記資料』(渋沢栄一記念財団)
『渋沢栄一自伝 雨夜譚・青淵回顧録(抄)』(渋沢栄一/角川ソフィア文庫)
『実験論語処世談 渋沢栄一叢書(Kindle版)』(渋沢栄一・渋沢栄一翁顕彰会/大道社)
『幕末の志士 渋沢栄一』(安藤優一郎/MdN新書)