●渋沢の故郷の目と鼻の先に徳川家所縁の地があった!
渋沢栄一の故郷・血洗島から5キロほど。利根川を挟んだ対岸に「世良田(せらだ)東照宮」という神社がある。名前でピンときた方もいるだろう。実はこの一帯、世良田という地は徳川家発祥の地だという。「いやいや、馬鹿言っちゃいけない。徳川は三河発祥でしょ。群馬なんて……」という方も少なくないだろうが、実は、徳川幕府公認の「父祖の地」なのだ。
もともとは鎌倉時代初期からあった長楽寺という古刹の敷地内に、三代将軍家光の命で南光坊天海が日光東照宮から神殿を移築。すぐ近くの満徳寺は鎌倉・東慶寺以外で唯一の「駆け込み寺」と定め、歴代将軍の位牌を安置。「世良田=徳川家発祥の地」と大々的にアピールしたわけだ。江戸時代には「お江戸みたけりゃ世良田にござれ」と俗謡が生まれたほど栄えたという。
◆源氏の名門「新田氏」の末裔を主張した徳川家
その徳川家公認の歴史によれば、そもそもこの周辺・新田庄を拠点とした源氏の名門・新田義重の四男、義季(よしすえ)が世良田の地を与えられ、世良田義季と名乗り先に挙げた長楽寺を開く。さらに隣の得川(とくがわ)郷も与えられ得川義季とも名乗る(この辺ややこしいw)。
さらにここからややこしいが、世良田氏の末裔・親氏が南北朝の戦乱で故郷を追われ三河に流れ着く。で、その地の有力者、松平氏に婿入りして松平親氏となり、この親氏の9代のちの子孫が松平元康つまり徳川家康だと(徳川家は)言っている。つまり、源氏─新田氏─世良田氏/得川氏─松平氏─徳川氏という流れで、要は「オレの先祖、源氏だから征夷大将軍になる資格アリ!」と主張しているわけだ。
●徳川家と渋沢栄一をつなぐキーワード「新田の血脈」
と、ここまでなら「要は出身地のご近所に徳川家発祥の地があったってだけだろ?」と思われるだろう。しかし、本筋はここから。渋沢栄一の一族と徳川家とは、単なる「先祖がご近所さん」では済まない因縁浅からぬ関係だったことが数々の資料が示しているのだ。
まずカギとなるのは、渋沢家の菩提寺である華蔵寺だ。血洗島の隣、横瀬村にある古刹で、郷土史『深谷市史・追補編』によれば、先に出てきた世良田(新田)義季の兄で、新田宗家の二代目である新田義兼(よしかね)に開かれたという。さらに、この横瀬村一帯は「横瀬六騎」という新田一族あるいは新田氏に従った地侍(武士団)の拠点だった。つまり新田氏の勢力範囲だったわけだ。
◆新田か足利か、いや武田かも? 謎めいた渋沢家の血脈
となれば渋沢一族も新田氏所縁の……と思うところ。実際、渋沢の孫で作家の渋沢華子氏は著書の中で「渋沢一族は新田の一党から出たのではないかという説もあるが」と記している。その一方で、渋沢の伝記資料などでは「血洗島に土着した先祖、渋沢隼人は足利氏の出自」という伝説が一族の中で語り継がれていたと記されている。
伝承のどこかのタイミングで、新田氏と足利氏がごっちゃになったのか? とも考えられるが、残念なことに、平将門研究で知られる織田完之から「そもそも足利氏末裔説は間違い。渋沢氏は甲斐源氏の末裔」と全否定されている(とはいえ、甲斐源氏→渋沢氏説も決定的な証拠はまだ見つかっていないとのこと)。