■メディア王にして伝説のスパイだった(?)父
イアン・ロバート・マクスウェル。本名はヤン・ルドヴィク・ハイマン・ベンヤミン・ホッホ。1923年、チェコスロバキア東部の敬虔な正統派ユダヤ教徒の家に生まれる。第二次大戦中にナチス・ドイツのホロコーストでほとんどの家族を失い、亡命チェコ軍を経てイギリス陸軍に従軍。ヨーロッパ各地を転戦し叙勲されるほど活躍。終戦時はベルリンで報道班として活動し、大尉にまで出世した。
戦後はこの頃の人脈を元に出版社を立ち上げ、企業買収などで急速に事業を拡大。60年代後半にはもう一人のメディア王ルパード・マードックと激烈な買収抗争すら繰り広げ、イギリスを中心にメディア帝国を確立。また、1964年には労働党から立候補し、庶民院(下院)議員となる。まさに亡国の民から一代で巨大帝国を築いた立志伝中の人物だ。
しかし、マクスウェルのもう一つの顔は、熱烈なシオニストでイスラエル支持者だったことだ。1948年のイスラエル建国と第一次中東戦争の際には、故国チェコスロバキアから戦闘機の部品密輸に携わり、勝利に貢献した。また、その後も“サヤン”と呼ばれる在外ユダヤ人協力者の一人として、モサドなどイスラエルの諜報機関とがっちり手を結んでいた。
大手メディアの会長として世界各国に顔パスで入れることを利用し、世界中でスパイ活動の根を張り巡らしたマクスウェル。80年代末にイギリスの諜報機関MI6が掴んだ情報に拠れば、当時のソ連・KGBのトップ、ウラジミール・クリュチコフ議長と個人的に会談できるほどのパイプを築いていたという。ちなみに、終戦直後、MI6はマクスウェルを工作員としてリクルートしようとするが断られ、「イスラエルにのみ忠誠を誓うシオニスト」と要注意人物としてマークしていたという(※4)。
■愛国者のスパイに待っていた不可解な死
マクスウェルは自らの帝国の富を惜しみなくモサドの秘密工作資金として提供したが、最大の“功績”として知られるのは1980年代後半に、「プロミス」と呼ばれる情報を盗み出すバックドア(トラップドア)を仕込んだソフトを米ソをはじめ世界各国に売りさばいたことだ。これにより、世界の諜報機関の機密情報はイスラエルに筒抜けになり、モサドが「世界最強の諜報組織」と恐れられる力となった。
これだけ貢献した愛国者にしてスパイのマクスウェルは、イスラエルを訪れるときは国賓並みの扱いだった。だが、モサドはそんな愛国者も信用していなかった。マクスウェルの弱みを握るため売春婦をあてがい、高級ホテルの一室に隠しカメラを仕掛け、盗撮したセックス・テープを万が一の際の“恐喝のタネ”としたのだ。
実際、90年代に入った途端、モサドとの関係は急速に悪化。特に秘密資金として提供(貸付?)してきたカネの返還を求めたことが決定打となり、1991年11月、マクスウェルはカナリア諸島沖で変死体として発見される。世界の諜報機関を深く取材してきたジャーナリスト、ゴードン・トーマスがまとめた『憂国のスパイ:イスラエル諜報機関モサド(原題:Gideon’s Spy)』によれば、この不可解な死はモサド工作員による暗殺だったとされている(※5)。
※5 『憂国のスパイ:イスラエル諜報機関モサド』ゴードン・トーマス著/東江一紀訳(光文社)
■モサド人脈を継承したギレーヌ?
あえない最期を迎えたマクスウェルだったが、エルサレムで行なわれた彼の葬儀は国家行事並みの規模で行なわれた。歴代6人のイスラエル情報機関長官が参列し、当時のイツハク・シャミル首相は弔辞で、
「彼はイスラエルのため、ここでは語り切れないほど尽くしてくれた」
とイスラエルに忠誠を誓った伝説のスパイの死を悼んだ。
そして、この葬儀にも参列していた愛娘・ギレーヌが、イスラエル、特にモサドとの人脈を継承したのではと指摘されている。元イスラエル参謀本部情報局(アマ―ン)職員でマクスウェルの“ハンドラー”だったとされるアリ・ベン=メナシェは、「彼女(ギレーヌ)が任務を引き継いだ」と語っており、エプスタイン島事件で話題となった「各国セレブのセックス・テープ」も、父ロバートがはまったモサドの手口を彷彿とさせる。
仮にベン=メナシェの指摘が真実であれば、エプスタイン島事件の点と点が繋がってくる。そして、FBIが「本当の黒幕」とギレーヌ・マクスウェルが名指しされた理由もはっきりとしてくるのだ。